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神を恨みたいときに

 昨年の五月頃、一人の卒業生から手紙を受け取りました。三月に卒業してからーカ月半、その手紙は、交通事故による母親の突然の死を告げるものでした。
熱心なキリスト教徒であった母親は、その日も障害者施設建設のためのバザーの用意のために教会の人々とともに車に乗っていたそうです。
ところが、その車が19歳になる少年の運転する車に追突され、母親はたまたま後部座席の真中に坐っていたために、弾みで飛び出してフロントガラスに頭を打ちつけて、ほとんど即死の状態だったというのです。

 自分自身も生まれつきのカトリック信者であるその卒業生は、「どうして、私が母を必要としている今、しかも、神さまのご用をしている最中に母は死なねばならなかったのでしょうか」と問いかけ、自分が生まれてからこの方、主と仰いできた神を「恨みたい気持ちです」と書いていました。

 父を不慮の死で失った経験を持つ私がその人に書いた返事は、「神さまをお恨みしたければ、存分に恨み言を言ったらいいのですよ。心にもないきれいごとを並べたてるより、本心を神にお打ちあけなさい。いつか、あなたに、お母さまの死の意味がわかる時がくるよう祈っています」ということだけでした。

 時として私たちは、「神も仏もあるものか」という気になります。正直者が損をして、ずるい人が甘い汁を吸っている。「神さま、あなたの目は節穴ではありませんか……」と言いたくなる時があるものです。「これだけ一生懸命働いているのに」とぐちの一つも言いたくなる時がありますが、そんな時に、キリストの十字架上の姿が浮かぶのです。

 自分自身は罪もないのに、他人のために、呟くこともなく十字架についたキリストは、時に理不尽な苦しみに必ず遭う私たちに、その苦しみかたと、その苦しみが決してムダでないことを、復活という事実で教えてくださいました。

「愛することは 許されること」渡辺和子著 PHP研究所

 

 


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