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苦悩と試練に負けない心を

 神は、決して人を罰したりしない。人をわざわざ試練に遭わせたり、苦悩で鍛えたり、悪しき誘惑で試したりしない。

 特定のつらいできごとや不運な状況を「神の罰が下りた」ととらえたり、「神が与えた試練だ」と感じたりするのは人間の勝手な思い込みであり、まことの親である方のはかり知れない親心を人の恐れが生み出したそんな安易な物語で解釈してはならないと思う。

 神の目から見れば、 人間の過ちなどあかちゃんのいたずら同然である。あかちゃんのいたずらに罰を下す親が、どこにいるだろう。

 神の目から見れば、 人間は親に頼るしかない、 か弱いあかちゃんである。あかちゃんを鍛えるためにわざとわが子を病気にする親が、どこにいるだろう。 神は決して、 人を虐待なさらない。

 確かに聖書には「神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらない」(1コリ10・13)というような、あたかも神が試練をあたえているかのような印象を与える言葉もあるが、それはそれに続く「試練に耐えられるよう、逃れる道を備えていてくださる」という親心を強調するための表現であり、 むしろ次のような言葉に注目すべきだろう。

 「試練を耐え忍ぶ人は幸い。その人は命の冠をいただく。 誰も『神に誘惑されている』と言ってはならない。 神は人を誘惑したりなさらない。むしろ人は自分の欲望に引かれて誘惑に陥る」(ヤコブ1・12〜14)。

 親が子を産むということは、子に「成長」という生きる喜びをプレセントするということである。成長とは、 親に依存するしかない究極の弱者として生まれ、 病気や挫折、誘惑と試練の中で次第に育っていくプロセスのことである。プロセスを与えた以上、 大きな意味ではその途上のさまざまな痛みを与えたとも言えなくもないが、それらの痛みは成長に不可欠の栄養素のようなものであり、親が個々の病気や苦悩をわざわざ与えているととらえるのは、 親心を傷つける曲解だろう。 親は、わが子が病み、 苦悩し、 絶望しかけている時こそ、わが子以上に心を痛めて枕元で看病しているのだから。

 したがって、「試みに引きたまわざれ」とは、「誘惑に遭わせないでください」とか「試練を与えないでください」という意味ではない。「苦悩や試練に負けない心を育ててください」「負けそうなときこそ一層の親心で私たちを包んでください」という祈りだ。

 病床を訪ねた人が、病者を励ますつもりで、「この試練の時も、 神がくださった恵みの時だ」とか、「これも神のみ胸と信じて受け止めましょう」などと言うことがある。 言いたいことは分かるが、 やや乱暴な表現だと思う。孤独と不安、 痛みと絶望の中では、そんな「神の恵み」や「み旨」は、 むしろ忌まわしいのではないか。

 第一、 神のみ旨は全くの神秘であって、 誰も正確に代弁することはできないはずだ。「摂理」とはそういうものであって、 神のはからいの中で、 我々は最後は黙るしかない、のである。 ただ、 ひとつだけはっきり言えることは、 神は苦悩と試練の時にこそ、その限りない親心を持って私たちを抱きかかえていてくださるという事実である。

 人生には、希望を失いそうになる時がある。 ふと、親心を疑いたくなる時がある。 それこそが「誘惑」「試み」の本性だろう。 必死に親にしがみつかなければならないのは、そんな時だ。


「家庭の友」記事 『苦悩と試練に負けない心を』 晴佐久昌英著

 

 


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