
皆さんこんばんは
このごろいかかがお過ごしでしょうか。
皆さんのご参考のためにイエズス会のデーケン神父の2006年ご復活祭ミサ説教よりの抜粋をお送りいたします。ゆっくり味わってください。
では、お元気で!お祈りとともに!
デュポン神父

ご復活祭おめでとうございます」
今日は、私たちにとって一年の間で特に嬉しい日です。イエズスの復活のお祝いの日だからです。私たちがイエズスの復活について考えるために、二つのポイントを話したいと思います。第一のポイントは、私たち、二十一世紀の人間にとって、イエズスの復活は、どのように考えたらよいかということです。第二のポイントは、イエズスの復活は、私たちにとって、どういう意味を持っているかということです。
まず第一は、私たち現代に生きる人間にとって、二千年前にイエズスが本当に復活したことは、どう信じることができるかですが、私は二つのことを指摘したいです。
一つは、イエズスが十字架に付けられて殺され、死刑に処せられて三日目に復活され、何千人もの人々の前に現れて、復活の後に会ったという証人がいました。もしそれが本当ではなかったなら、誰かが嘘だったとか、私たちはイエズスに会わなかったとかなどと、きっと言ったと思います。
もっと大切なポイントは次のことです。私は、遠藤周作さんがまだ元気なときに、毎月一回キリスト教芸術センターの研究会に参加していました。遠藤周作さんは、イエズスの復活を私たち二十世紀の日本人が信じることができるかどうかについて話し合ったとき、『イエズスの生涯』本にも書かれていますが、次のように言っていました。
イエズスの十字架上の死の前では、弟子たちは、明らかに非常に臆病者でありました。ペトロは、イエズスを知っていることを否定したほどの臆病者でした。もし自分がイエズスの弟子であると発覚したら、自分も逮捕されるのではないかと心配し、恐れたのです。そして他の弟子たちもみんな逃げたでしょう?ヨハネだけは、十字架の下で三人の女性、マリアとマリア・マグダレーナともう一人のマリアの三人と共に立っていました。三人の女性は強かったのです。男性の弟子たちはヨハネ以外はみんな逃げてしまいました。明らかに臆病者でした。遠藤周作さんが強調したのは、復活されたイエズスに出会った弟子たちは、後でものすごく 深い信仰を持って、世界中を回って殉教したということです。私も同じように思います。
私はこの三月に聖地巡礼の後、アッシジとローマに行き、ローマでコロセウムを見ました。コロセウムについては、皆さんも、『クオ・ヴァディス』(注1)の映画や本などでご存じだと思いますが、大勢のクリスチャンがライオンに食べられたことを、そういうような恐ろしい場面を、歩きながら思い出しました。ペトロは、イエズスのことを知らないと言いましたが、後で復活されたイエズスに出会ってから、ローマまでも行き、十字架に架けられて、聖ペトロ大聖堂(私たちがローマ法王の謁見に参加した場所)の所で殉教したのです。遠藤周作さんが言っていますが、人間は嘘のためにいろんなことをやりますが、殉教はしません。私も同じように思います。もしペトロと他の弟子たちが、復活されたイエズスに出会わなかったなら、その信仰のために殉教し なかったのではないでしょうか。この点において、イエズスが復活されたことを信じることができると思います。・・・・・・・・・
(注1)ポーランドの作家、ヘンリク・シェンキェヴィチ
Henryk Sienkiewicz (1846―1916)の歴史小説。
映画化もされている。
クオ ヴァディス Quo Vadis
ラテン語で「どこに行くのですか」の意味。
(デーケン神父の2006年ミサ説教より)