自分を語る
                                         鈴木 真神父(2009/8)

生い立ち

 わたしは昭和37年に鎌倉で生まれました。5歳の時父が脳内出血で突然亡くなり、以来母と一つ下の弟との三人家族で育ちました。父親がいないという気負いもあったのでしょうか、母はとても厳しくわたしたちを育てました。小学校3年位の頃(こちらもいたずら盛りでしたが)は、この人は本当は鬼なんじゃないかと思ったほどでした。しかしそんな母の苦労の甲斐もなく、10代の頃は不良になりました。別に何があったわけでもありません。世代的には団塊と第二次ベビーブームの間に位置しますが、それでも同世代は多く、街に不良が溢れているような時代でした。毎日が戦国時代のようで、その中で生き残るために一生懸命戦っていたら、いつのまにか不良になっていたのです。母から何度も「お前をこんなふうに育てた憶えはない」と言われましたが、確かにわたしもこんな不良になるように育てられた憶えはないな・・と思いました。完全に自分のせいですね。

 中学の頃、フォークソングが流行っていて、ギターを自分で弾きたくなりました。中2の夏休みに毎日家で食器洗いをしてギターを買ってもらい、暇さえあればギターを弾いていました。その割りにギターはたいして上手くなりませんでしたが、当時は将来ミュージシャンになりたいと本気で思っていました。中3になり高校受験が迫った頃、母から「うちはお父さんがいないからお前を私立にやるお金がない。公立落ちたら働きなさい」と言われ、生まれて初めて緊張しました。さすがに中卒はいやだな・・と。当時偏差値が下から何番目かの県立高校になんとか受かりましたが、入ってみたらとんでもないただの“不良養成学校”で、気付いたら立派な不良になっていました。

高校生から大学へ

 高校の頃はさすがにミュージシャンにはなれまいと思いましたが、バンド活動にはまり、バイトしてドラムセットを買い、バンドでドラムを叩いていました。高2の秋の文化祭でクラスで喫茶店をやることになり、当時から仕切り屋だったのでしょうか、自ら店長を買って出ました。教室を店にして、インテリアを考えたり、テーブルクロスを買いに行ったり・・と全部自分たちで準備しました。そしてもう時効だと思うので白状しますが、出た利益でその年の暮れにクラスで忘年会をやりました。本当は利益は学校に出さなければいけない決まりでしたが、数学が得意なヤツを会計に据え、完璧な二重帳簿を作って学校には赤字報告をし、その実かなり儲けたのです。しかしクラスで何かやると盛り上がるし、絆が生まれるんですね。今から思うと改めて驚きますが、当時そのことをクラスの誰一人として先生にチクろうとはしませんでした。その体験がとても楽しくて忘れられないものとなり、その頃から将来自分で小さな店でも持てたらいいだろうな・・と思うようになりました。料理もその頃から好きで興味があり、母から教わったり、料理番組を見てメモを取ったりしていました。料理人を目指そうかとも思いました。不良でしたが勉強はそれほど嫌いではなく、特に本を読むのが好きで、高3の時遠藤周作さんの『沈黙』と出会い、以来沿道作品を読み漁りました。進路を控えて料理学校も考えましたが、大きなレストランやホテルの調理場はちょっと違うな・・とも思いました。勉強も嫌いではなかったので大学に進むことにし、学部を選んでいたら《商学部経済学科》というのを見つけました。これだ!と思いました。将来自分がやりたいこととピッタリだ、と。そこで四つの大学を全部その学科で受け、日本大学の商学部になんとか受かりました。しかし入ってみたら、今考えたら当たり前のことですが大学で個人経営の勉強をするはずもなく、企業経営や経理の科目ばかり・・間違えたな、と思いました。自然と大学にはあまりまじめに行かなくなり・・今度は教会活動にはまりました。

教会活動

 私は幼児洗礼者ですので、気が付いたら教会にいたという感じですが、不思議と教会を離れたことはありませんでした。教会に仲間が沢山いましたし、遊び場でもありました。大学に入り、横浜教区カトリック学生連盟(通称『学連』)の活動に出会いました。(現在わたしが担当司祭で・・なんとか細々と活動は続いています。)当時学連は信徒使徒職団体という位置付けで、教区の活動ですから責任者は教区長、濱尾司教さんともそこで出会いました。有名な人(しかも司教!)と話せる喜びや、小教区を超えた活動、「教区」という枠を初めて知り、新鮮な感動と魅力を感じました。その学連で聖書研究をし、聖書という書物を改めてそれも学問的に読むことになり、聖書にとても興味がわきました。当時は特にプロテスタントになかなか過激な聖書学者がいて、カトリックの教義に多少疑問を持っていた幼児洗礼者のわたしは、遠藤文学とあわせて聖書という書物にはまっていきました。自分で選んだのではないカトリック、キリスト教という宗教を自分自身で改めて捉え直したい・・今から考えればそれを頭でばかり考えていました。聖書を改めて勉強し直したい、とも思いました。

就職活動と神学校への道

 大学四年になり就職活動を始めるにあたって、本が好きだったので出版社をいくつか回りました。しかし何か違う・・と思っていたところ、こんな噂を聞きました。「神学校って所に入ると、上智大学の神学部にタダで、しかも比較的簡単に入れるらしい」・・これじゃん!と思いました。カトリックで聖書を勉強するなら、やっぱ上智大学だろうと。しかし神学校って神父になるための学校・・神父になる?教会活動は好きだけど・・いや結婚もしたいし・・大体こんな不純な動機で神学校って入っていいの?と様々な疑問が渦巻く中、ちょうど子供の頃からお世話になっていたカナダ人の神父さんが近くに来ておられたので、相談しに行きました。おそらく怒られるだろうと思っていました。そんないい加減な気持ちで行っていいところじゃない、と。ところがその神父さん、目を輝かせながらこう言ったのです。「呼ばれてる?」「は?」「呼ばれてる感じ?」「・・って誰にですか?」「神様よ!」「いや〜あんまり感じませんけど・・」そして、就職すると決心が鈍るから、今すぐ入れと言われました。違うと思ったら、やめればいいのだからと。意外な展開の中、神に呼ばれるというその神父さんの言葉が妙に頭に残り、次の日から毎日自分の所属教会の聖堂に通って祈りました。「神様、あなたが呼ばれてるんだったらどうぞ分かりやすいように声かけて下さい・・」でも神の声は聞こえませんでした。その時は、そう思いました。まぁ落ちてもともと、受けるだけ受けてみよう・・と受けてみたら、数々の試験があったにも関わらず合格しました。

 当時の東京カトリック神学院に入学し、愕然としました。回りはみな「わたしは司祭になりたい」というオーラを噴出させ、中には長年会社勤めをしたあげくに司祭を目指して入ってきた人もいました。また間違えた・・と、入った次の日からやめることばかり考えました。上智神学部の勉強は望んでいたことなので面白かったのですが、とにかく自分はここにいてはいけない人間だと思いました。半年経った頃、養成協力者として当時神学校にいらした東京教区の沢田和夫神父さんに相談しました。「ここに来たのは間違ったようなので、よめようと思います・・」するとこう言われました。「やめるかどうかはあなたの自由だろうけど、神様がここまであなたを呼ばれたことを考えてみなさい」・・まただ。また呼ばれるだ。果たして自分は呼ばれているのか・・そのことが本当に分からず、でも実際にやめる勇気もなく、時は過ぎてゆきました。二十代のほとんどだった神学生時代は、様々なことがありました。色んな人と出会い、その生き様に触れて、「司祭になりたい」と感じたことも確かにありました。不良から更生し切れておらず(今でもですが)、色々と問題も起こし、よくクビにならなかったなと思います。ただ自分は神に呼ばれているのかどうか、それがずっと引っかかっていました。

神様の選び、そして今

 5年目の半分を過ぎた頃、さすがにこのまま司祭になっていいわけがないと思い、また社会経験と一人暮らしもしてみたかったので、研修期を取ることにしました。濱尾司教さんに相談すると、「二年間で答えを出しなさい」と言われました。横浜の上大岡のぼろアパートを借り、本が好きなので本屋か・・と単純な発想から横浜の有隣堂西口店で働きました。本屋は給料が安く、大変な生活でしたが、仕事もそれなりに楽しく日々を過ごしました。

 秋頃になって「待てよ、このままだと立派な本屋になっちゃうけどいいのか?」と、そろそろまじめに考えなきゃと思いました。しかし考えてもなかなか答えが出てきません。司祭になりたくないわけじゃない。でも何になりたいのかと考えてもわからなお。まわりの友達は結婚して子供ができて、そんな小さな子を抱いたりすると『自分の子供が欲しい』と真剣に思ったりもしました。どう考えるのは面倒臭くなって、こう祈りました。「神様、やっぱオレ馬鹿だから分かりません。あなたに任せますから、もう好きにして下さい」・・と。これか!と感じました。今まで「自分が」という方向でしか考えてこなかった。「神様は」という方向で見たことがなかった。じゃあ神様はどうなんだろう、何を求めておられるのだろう・・と。すると今まで見えてなかったことに次々と気付かされました。自分でやってきた、自分が選んできたと思っていたことが、実は全部神様によってよういされていたものであったことに。そして、確かに神は自分を呼ばれていたんだ、ということに。そして出た結論は「神様はどうやらこのわたしを司祭にさせたがっているらしい」でした。それで充分、神ののぞみに沿って歩めばいい。それに逆らったって仕方がないのだから。そして一年で研修期を終え、神学校に戻りました。ですからわたしは司祭になりたいと思ってなったわけではありません。なりたいとおもったことがないわけではないけれど、それでなったわけではないし、司祭になって何かをやろうと思ったこともありません。神様にやれと言われたことをやれればと思っています。ただ時々しんどいと、神様に文句を言っちゃいますけど。「ちょっと勘弁して下さいよ!あなたがやれって言ったんでしょ?」って。なんでも神様のせいにすると楽ですよ。

 振り返ってみると、中学の頃に憧れたミュージシャンにはなれなかったし、高校から夢見ていた料理人にも残念ながらなれませんでしたが、中高生や小学生とギターを弾きながら歌ってると本当に楽しいし、バンドもいまだに生き甲斐です。青少年の合宿でよく食事係をやりますが、自分の作ったものを「おいしい」と言われたときほど幸せを感じることはありません。神様は何も無駄にしないんだなと感じます。思ってもいなかった方向でとは思いますけど。

 今年は急な異動となったり、また倒れたりと前半少々バタバタしてしまいましたが、ここ百合ヶ丘に赴任したのも神様に行けと言われたんだと思っています。

          


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