荒れ野でイエスが悪魔から誘惑を受ける、という箇所です。マタイとルカにあるこのイエスと悪魔とのやりとりは、実際にあった出来事というより、かつて出エジプトの際にイスラエルの民が荒れ野において経験した人間の欲望・欲求に対する誘惑を、イエスがことごとく克服する、という形で編集されたものといわれています。
この「誘惑」と訳された言葉は、実は言語では「試練(試み)」と訳されるのとまったく同じ単語だそうで、ある場合には「誘惑」、また別のところでは「試練(試み)」と訳されているのだそうです。もともとの意味としては“神から離れる可能性を持つ要因”。つまり人間の側からの受け取り方によって、一つの出来事が人間を神から離れさせる(悪魔からの)「誘惑」になったり、あるいは逆に神から与えられる「試練」にもなる、というわけです。ただ「神からの試練」という受け取り方は、ある意味でとても旧約的であるとも言われます。新約の視点から考えれば、むしろそれは人間の欲望ゆえに神から離れてしまうことになる「誘惑」であるのだ、と。十数年前に『主の祈り』が口語訳になりましたが、その際「試みに引きたまわざれ」の部分が「誘惑に陥らせず」と訳しなおされたのも、その理由からです。
かつてカトリックでは「神からの試練」ということがよく言われました。何かつらいことや苦しいことがあると、それはわたしたちを鍛えるために神が与えられた「試練」であるという捕らえ方です。確かにパウロも書簡の中でそのようなことを言ってはいるのですが、わたしはそれにずっと疑問を持ってきました。聖書、特に新約を味わうほどに「神は一つひとつのいのちをこよなく、かけがいのないものとして愛して下さっている」というメッセージを感じるわけですが、それと「神からの試練」ということがどうもしっくりこなかったのです。そんなにもわたしたちを無条件に愛して下さっている方が、はたして人間を「試し」たりなさるんだろうか・・・ということです。
今日の福音の箇所でも『あなたの神である主を試してはならない』という申命記の引用がありますが、人間が神を「試す」のは疑いがあるからで、それは神と人との関係にふさわしくないこと、とされています。ならばその逆は・・・とも考えてしまいます。そんな中で、『主の祈り』の口語訳の説明は、私たちにとってその疑問を解消するきっかけとなりました。すべては人間の欲望や欲求ゆえの、わたしたちを神から離れさせてしまう「誘惑」であるのだ、と。わたしたちが苦しみや、悲しみの中にある時、神はむしろそれを共に担っていて下さる。
何よりもキリストの十字架がそのしるしに他なりません。ただわたしたちが困難な状況にある時には、ともすると神から離れがちになってしまうことも事実でしょう。なぜ「神はこのような苦しみを与えられるのか」といったように。そしてだからこそ、聖書は一貫してどのような時にあっても「神にのみより頼め」とメッセージし続けるのです。神はわたしたちの苦しみをすべてご存知、それどころか共にそれを担っていて下さる。「神からの試練」というとらえ方は、ある意味安易で簡単ですが、それはほんとうに聖書が伝えようとしている【神の愛】に触れにくいのではないかと思います。そのことを実感してから、わたしは開き直って自分の中の辞書から「試練」という言葉を削除してしまいました。確かに自分も若い時には、苦しいことやつらいことがあると、「神さま、な、なんですか?」「もう勘弁してくださいよ!」などと神さまに散々文句ばっかり言ってきましたが、最近ようやく「あなたはすべてを御存知ですよね」「どうかわたしたちを癒してください」といったような前向きの祈りになってきたように思います。人間嘆きたい時は無論あるもので、それもある意味で必要なことでしょうが、どんなに嘆いても最終的に神から離れてしまうのではなく、神に向かい続ける、信頼し続けることこそが、聖書の提示する【信仰】なのだと思います。「わたしたちを誘惑に陥らせず」と祈る時、神さまの側はいつでもわたしたちを見つめて、わたしたちが振り向くのをずっと待ち続けていて下さる、その【神の愛】をいつも思い起こしたいと願っています。
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