主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

待降節第1主日B年(11/27)
マルコ13:33-37

「目を覚ましていなさい、その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」‥何度となく読んできた箇所ですが、今回はなんとなく異動のことが頭に浮かびました。わたしは司祭になって、ここ百合ヶ丘が5ヵ所めの赴任地です。我々司祭は司教に行けと言われた所に行くわけで、いつでもそのつもりでいるわけですが、でもやはり分かってはいても、異動する時はとてもエネルギーを使うものです。

 毎週木曜日の晩に、テレビで「ひみつのケンミンショー」という番組があって、わたしはとても好きで毎週のように見ています。番組の終わり頃に「連続転勤ドラマ〜辞令は突然に〜」というコーナーがあって、若い夫婦が次々と日本全国色んなところに転勤になって、その二人のドタバタな生活を通して各県の色々を紹介するという内容なんですが、そんなのを見ていると、世のサラリーマンの方々もまさに突然の辞令で転勤なさって、大変なんだなぁとつくづく思います。

 司祭になって最初の四年間は助任でしたので、いつ異動になっても‥という感じでしたが、1996年に二俣川の教会に初めて主任司祭として赴任しました。このときも結構突然言われたんですが‥。当時は濱尾司教さんが教区長で、主任は十年が目安と言われてました。二俣川にいる間に梅村司教になったんですが、六年目になって多少落ち着いてきて、まぁあと何年かのんびりやらせてもらうかな‥などと思っていた時でした。二俣川というのは恵まれた教会で、いつでも若者が沢山います。当時たまたま楽器をやる若者が何人かいました。わたしは高校時代からロックバンドでドラムをたたいていて、でも司祭になってからはドラムも手放しバンド活動も遠ざかっていたのですが、そんな若者たちといてどうしてもまたバンドがやりたくなり‥忘れもしない2001年10月中旬、半ば衝動買いでドラムセットを購入しました。‥とその一週間後司教さんに呼び出されて「マコト、茅ヶ崎行って」「え!?い、異動ですか?(ドラム買っちゃったよ‥)」二俣川の信者さんたちは「神父さん、ドラム買ったみたいだから当分異動はないね」と噂する始末。すいません‥と、ドラムと一緒に異動しました。先日のチャリティーコンサートで披露しましたドラムが、その時買った物です。早いもので、もう買ってから10年経ちました。茅ヶ崎には7年居たのですが、梅村司教になってからはたいてい6〜7年で異動になっていたので、そろそろかなとも思っていましたが、2008年中には何も言われなかったので、まぁ来年はないだろうとタカをくくっていました。ところが翌年一月末に「マコト!百合ヶ丘行く人いないの」「エエエー!?い、異動すか?」‥な感じで今に至る、です。そんなわたしにとってやはり異動はある意味いつも突然で、それに対して「準備していろ」と言われても、何をすればよいのかわからない感じがしてしまいます。ただひとつ思うのは、すべては神のわざ、色んな赴任地に赴くのも神さまのわざだとすれば、そこには必ずその神さまの愛が土台としてある、ということです。人の目にどんなに大変で、どんなに難しく、また悲惨なように見えても、それは神さまの愛ゆえのわざに他なりません。実際我々司祭は異動を繰り返すたびに人との出会いが無限に与えられるわけで、それは本当に想像を超えた大きな恵みだな、と心から思います。「目を覚ましていろ」とは、そこに目を向けなさい、そのことをいつも心におきなさい、ということなのかもしれません。待降節に入り、主の降誕の記念の時に向けて今年も準備を始めるわけですが、すべての神のわざの土台に限りない神の愛があることに、改めて御一緒に目を向けたいと思います。特に今年は震災があり、色々な思いをかみしめる年となりましたが、だからこそ、その神の愛を信じて、できることをひとつづつ、やっていきたいと思います。

そしてできればもう何年かわたしが百合ヶ丘にいられますよう、どうぞお祈り下さい。


マルコによる福音 

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。

だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏(にわとり)の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13・33-37)



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