「見ないのに信じる人は幸い」
毎年、復活節第二主日に読まれるこの箇所は、弟子たちにとって復活のキリストとの出会いという体験が実に沢山の要素に満ちたものであったことが伺えるところでもあります。
ヨハネ福音書にしては珍しくあっさりと描かれている箇所ですが、注意深く読むと、まずそこには弟子たちにとって、十字架の出来事に際して師を見捨てた自分たちに与えられた無条件のゆるしの体験であったこと、そしてそんな自分たちがありのままの姿で宣教へと派遣された体験であったことがわかります。さらに初代教会が、主日のミサにおいて復活のキリスト、つまりそこに生きておられ共にいて下さるキリストの存在を感じていたことなども伺えます。
しかし、やはり目を引くのはトマスとのやり取りの中でイエスが言われる言葉「見ないのに信じる人は幸い」ではないかと思います。
わたしたち肉眼でものが見える人間は、どうしてもそれに頼りがちになります。でも実は、〈見えている〉と思っているが実際には〈見えていない〉ものも少なくないでしょう。逆に〈見えないもの〉が〈見えているもの〉の中に込められている事は、〈見えないもの〉の大切さをわたしたちが信仰の中で実感する時、様々なところで思い起こさせられるのではないでしょうか。
こんなことを思い出しました。わたしが司祭になって最初に赴任したのは長野県の松本の教会でしたが、そこの信徒で目の見えないおばあさんが一人いらして、定期的に御聖体をお持ちして訪問していました。ある寒い冬の日でした。そのおばあさんのところに行って一緒にお祈りをし、御聖体を拝領し終わると、そのおばあさんが「神父さん、ちょっと待ってて」と言って席を立ち、台所と思われる場所に消えました。お茶でも入れてくれるのかなと思い、「あ、どうぞお構いなく」と言いながら、目が見えなくても勝手知ったる我が家だなと別段心配はしませんでした。寒い部屋で暖房器具はコタツだけ、さすが信州人は寒さに強い‥などと思いながらコタツに足を突っ込んで待つこと五分、目が見えないから何かと時間がかかるのかなと思っていました。しかし十分経ち‥十五分を過ぎた頃にさすがに心配になり、「OOさん、大丈夫ですか?どうぞお構いなく」と声をかけた時、そのおばあさんがお盆を持ってあらわれました。お盆の上には小皿に載った一切れの大根の炊いたもの。おばあさんはニコニコしながらわたしにこう言いました。「あったかいのが御馳走だで、なんもないけんど(松本弁です)。」そのときの大根の味がいまだに忘れられません。別に特別な味付けとかではなく、おでんの大根みたいなものでしたが、そのおばあさんの言った「あったかいのが御馳走」という言葉通り、寒い部屋でいただくあったかい大根がこんなにもおいしいものかと思いました。帰ってから気付きました。あれはおそらくどこかからもらったおばあさんの夕飯のおかずで、その中の一番いいもの、冬に食べて一番おいしい具材をわたしのために暖めて出してくれたんだ、と。《もてなしの心》を教わったように思いました。〈見えるもの〉に込められた〈見えない〉もてなしの心、それに触れる時、〈見えるもの〉は単なる物質以上の価値を放つものとなる。
神さまのわざも同じではないでしょうか。見えるもののそれぞれの中に見えない神のわざが働いている。「キリストの復活」とはまさにそれだと思います。そんな神のわざを味わいつつ、共に復活節を過ごしたいと思います。
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