主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

キリストの聖体A年(6/26)
ヨハネ6・51-58


 使徒たちがつくっていった初代教会では、聖餐式、つまり今日で言う「ミサ」がかなり早くに定着していたと言われています。今日のヨハネ6章も、イエスがパンを増やす奇跡の場面から始まりますが、全体としてこの「聖餐式」をベースとして編集されたところです。ですから実際にイエスがこのように言ったわけではなく、ヨハネ福音書の母体となった共同体において、「聖餐式」の意味が説明されているところ、と言っていいでしょう。

 現代においても、わたしたちカトリック信者にとって「ミサ」はやはり大きな位置を占めるものでしょう。何よりも教会が二千年の間、「主の日」つまりイエスの復活を記念する日に、イエス御自身が指示された「主の晩餐の記念」すなわち聖餐式を続けてきたこと自体が、とても大きなことに違いありません。

 以前、青年たちの集まりで<思い出に残るミサ、忘れられないミサ>というテーマで分かち合いをしたことがありました。「ワールド・ユース・デーの時の教皇様のミサが忘れられない」と言っていた若者が多かった気がします。教皇といえば、先々週のカトリック新聞の『声』の欄に、ちょうど30年前のヨハネ・パウロニ世教皇の後楽園球場でのミサが忘れられない‥と書いておられる方がいました。それを読みながら自分でも思い出しました。あの時わたしは大学受験真最中で、後楽園には行かれず家でテレビを見ていました。ミサが始まると母が「ほら、ミサ始まるわよ」と言って、家族みんなでテレビに向かって十字をきって、なんか変な気分になったのを思い出します。

 皆さんにとっても、思い出に残るミサ、忘れられないミサというのがあるでしょう。わたしにとってそれは何かな‥と考えていて、ふとあることに気付きました。要するにカトリックって、なんでもミサでやっちゃうんですね。洗礼式もミサ、結婚式も信者どうしならミサ、葬儀もミサ、叙階もミサ‥つまり人生の節目、重大な局面はみんなミサとセット、そういう時は必ずミサを捧げてる。なので「忘れられないミサ」とはそのまま自分や人の人生の大きな変化の時、であるわけです。それはすなわち、神がわたしたちの人生の中で確かにはたらいておられるしるし、キリストがいつもわたしたちと共に歩んでくださっているしるしなのだと思います。キリストとの出会い、人との出会い、そして別れなど‥その次の一歩を踏み出そうとするとき、わたしたちはキリストの食卓を囲むわけです。そしてある意味でそれはわたしたちが<キリストを通して神に生かされている>ことのしるしでもある、と言えるでしょう。

 わたしにとって忘れられないのは、やはり自分が司祭に叙階された時のミサでしょうか。ミサ中はとにかく緊張しまくってました。諸聖人の連願の時、床にうつ伏せに伏せるのですが、心臓がバクバクいってて、自分の体が上下に揺れてて「やばい、俺緊張してる‥」と揺れながら思っていたのを思い出します。その年の司祭叙階はわたしだけで、700人位の人が由比ガ浜教会にいらして、それだけでもう「こんな俺のためにこんなに沢山の人に来られても無理、とても応えられない」なんて思ってました。今ではそれは「自分」なのではなくて神がはたらかれているしるしだったんだ、と思えるのですが‥。ビデオ映像を作って下さったんですが、もう二十年近く経つのでみんなとにかく有り得ないほど若いし、見ると色んな意味でたまらなくなるので、もう自分からは見れません。

 実は今日、午後三時から山手教会で若者たちが「あっちこっちミサ」というのをやります。もう十年位、2~3年に一度のペースでやっているのですが、全国の青年たちが「普段は遠く離れていてもひとつにつながっていることを実感するために同じ日の同じ時間に全国各地の色んなところ、あっちこっちでミサを捧げよう」というものです。今回は長崎教区の青年たちが準備してくれて、被災者のための霊的花束などもミサの中で捧げられます。若者たちを見ていると、「ミサ」がとても自然に自分たちの中にあることを感じさせられます。集まりをしたり、合宿やイベントなどの時は必ずミサがシメ、みたいな。これも、彼らの中にキリストが生きて共にいて下さっているしるしなのでしょう。

 「ミサ」という、わたしたちにとって本当に大きな恵みの場が与えられていることに、あらためて目を向け、共に感謝したいと思います。




ヨハネによる福音 ヨハネ6・50-58

そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。「わたしは、天から降(くだ)って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」


 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」


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