主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

王であるキリスト B年説教(11/25)
ヨハネ18・33b〜37

「王であるキリスト」の祭日、年間最後の主日です。これは1925年に教皇ピオ11世が制定したもので、年の終わりに当たってキリスト再臨を意識し“救い主としての王であるキリストを祝う日”とされています。

「キリスト」というタイトル自体がヘブライ語で“メシア(油注がれた者)”つまり王をあらわす言葉でもあるし、またそこに神学的な説明もあるわけですが、わたしは毎年この日を迎えるたびに、「王」というタイトルをイエスに付けることにどうしても違和感を感じてしまいます。この世の「王」の華々しいイメージ、あるいは《権力者》《支配者》といったイメージが言葉自体にあるからでしょうか、もっとも小さい者と共に歩まれたイエスには似つかわしくないように思えてしまうわけです。

聖書、特に旧約の描く「王」という存在に着目してみると、ある程度その答えが見えてきます。イスラエルが王制をとっていたのは、実は歴史的に見るとほんの一時期でした(といっても500年位はありますが)。元々イスラエルには「神こそが王であり支配者、人間の王はいらない」という考え方がありました。ところがカナンの地に定住した彼らは隣国(部族)との戦争をはじめ、司令官として全体を統率する「王」の存在の必要性に迫られて、渋々ながらも王制を取り入れるに至ったのです。その「渋々さ」加減が聖書にもよく表われていて、なかなか面白い感じがします。たとえば申命記17章に『王に関する規定』というのがあって、これがなかなか厳しいものです。まず「王は妾を持ってはいけない」。‥実は王様はみんな妾がいました。まぁ世継ぎを残すためにもですが。“永遠のヒーロー”とうたわれるダビデはなんと人の奥さんを横取りしましたし、ダビデのあとを継いだソロモンはそのお妾さんの子でした。次に「軍備拡張してはならない」。元々戦争のための王なのに、軍拡はいかん、というんですね。そして「同胞を見下してはいけない」。何よりも「国民の誰よりも律法に精通していなくてはいけない」と。こうした規定は案の定守られず、それがゆえに王国は衰退の一途をたどった‥と旧約は描いていくわけですが、王国滅亡の前後から「これで終わりではない、神はいつか必ず本物の『王(救い主)』をわたしたちに送って下さる」といういわゆる“メシア思想”が出てくることになるわけです。

ポイントはやはり、「神こそが王」というイスラエルのもともとの考え方にあります。そこには神とはどのようなお方か、つまり一つひとつのいのちをこよなく愛して下さる、それがゆえにわたしたちをいつも支え生かして下さる方、だからこそその神を「すべてを治めておられる」と表現したわけです。そしてそのような神を体現するのが「王」という存在でなくてはならない‥と。これはやはり人間には所詮無理なことですね。

今日の福音の中でイエスは「わたしは真理を証しするために来た」と言われます。この「真理」という言葉はヨハネ福音書が好んで使う言葉で、何か哲学的な意味ではなく「神の本質」をあらわす言葉、つまりは『神とはどのようなお方であるのか』を示すものに他なりません。イエスという方はまさに御自分のすべてをもって「父である神」を示して下さった。だからこそ、イエスこそが「キリスト」つまり本当の「王」であり「救い主」である、と言われるわけです。イエスはこの世のどんな王とも違う、“神さまのものさし”すなわち福音的価値観を生き、示す「王」です。この世の王であれば、この世的な、人間社会の常識的価値基準を持って治めるのでしょうが、イエスが示された“神さまのものさし”はある意味でそれとはまったく違うものです。違うからこそ、わたしたちがそれに従って歩むことは時には難しく、また時には失敗することもあるわけですが、わたしたちキリスト者にとってその“神さまのものさし”こそが救いであり、神さまが本来人間に与えられた生き方である、と信じているわけです。

「王であるキリスト」の主日を祝うわたしたちが、イエスの示された“神さまのものさし”にいつも目を向けることができますよう、心を合わせて祈りたいと思います。



ヨハネによる福音 (18・33b〜37) 

そのとき、ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞(どうほう)や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証(あか)しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」


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