主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第21主日(8/25)C年《ルカ13:22〜30

 

  「狭い戸口から入るように努めなさい」‥なんとも感じ悪い箇所ですね。「お前たちがどこの者か知らない」「泣きわめいて歯ぎしりする」‥なんかもっと他に言い方があるのでは‥とか思ってしまいます。まあここは直接には律法学者やファリサイ派の人たちなど、イエスを受け入れようとしなかった人に対する厳しい警告の言葉になっているわけですが、特にルカ福音書は異邦人、つまりユダヤ人でないキリスト者の共同体がベースとなっているので、ユダヤ人でありながらもイエスを受け入れない人たちについて、ことさら厳しい言葉を投げかけます。

学生の頃、アンドレ・ジイドというフランスの作家が書いた『狭き門』という小説を読みました。マタイの並行箇所を引用したもので、ある牧師さんが盲目の孤児の少女を引き取って一生懸命育てるのですが、それが裏目に出てしまって少女は精神的に追い詰められ、自殺してしまう(確かそんな内容だったと思いますが‥うろ覚えなので間違っていたらすみません)というなんとも暗い気持ちにさせるもので、最後に「狭い門から入りなさい」‥と。確かに誰かのためによかれと思ってやったことが、裏目に出てしまう‥ということはありますし、よくよく考えてみるとそこには実は《自分の思い》つまり自分のためという要素があって、それを知らずのうちに相手に押し付けている場合もあるのかな、と思います。そんな《自分の思い》を入れてしまってはいないか、そのことへの警告としてのメッセージとして今日の福音を読むこともできるかもしれません。

そしてそれとは全く逆のパターンもあるのではないかと思います。すなわち、自分がまったく意識していないところで、実は自分の存在が他人の助けや支えになっていたりすること。これはまさに、神さまのわざだと思います。そしてそこには《神さまの思い》が込められていることにも、しばしばわたしたちは気付かされます。

先週末、今年も教区の高校生大会があり、食事をつくってきました。今年は34人の高校生の参加があり、嬉しいことに百合ヶ丘からも一人の高校生が参加してくれました。毎年感じ、またお話しすることですが、今年も本当に若者の元気と力と純粋さに癒されてきました。実はちょっと今月は大変で、菊名と百合ヶ丘で葬儀が沢山出て、これは大会中体が持つかな‥とかなり不安だったのですが、見事に高校生たちに癒され、元気をもらいました。しかし当の本人たちはそんなこと全く意識せず、大切な仲間ができた、自分の居場所が見つかったと、全然違うところに感動しているわけで、そんな彼らに周りの大人たちが癒され力をもらってる‥これはまさしく神のわざに他ならない、と感じました。やはり、大切なのは自分の思いやのぞみではなく、神さまのわざがどこにあらわれているか、そしてそれに気付く時、そこに《神さまの思い、のぞみ》が込められていることが見えてくるのだと思います。

自分の思いやのぞみを優先させるのではなく、そんな神の思いやのぞみにいつも目を向け直せることができるよう、共に祈りたいと思います。

ルカによる福音《ルカ13:22〜30》

 (そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」


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