主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第11主日B年(6/14)
[マルコ4:26〜34


 

 この『成長する種のたとえ』という前半はマルコにしかない箇所ですが、後半の『からし種のたとえ』はマタイやルカにも並行箇所のある、有名なものですね。植物の成長はよく「神の国」にたとえられます。人間の目にはわからないところで、神は確実にはたらいておられる。そして人の目には極めて小さく見えるものでも、神はそれをありえないほど大きくしてくださる‥もとの「種まき」も含めて、すべては人間には意外な神のわざ、というわけです。

レジオ・マリエの集まりの時にも話したことですが、先月わたしは横浜の本郷台であったある催しに、若者たちと行って来ました。本郷台には鍛冶ヶ谷教会(神奈川第5地区)があります。実はわたしは、神学生の時2年間、鍛冶ヶ谷教会で土日のお手伝いをしました。1992年、司祭叙階後に初ミサで伺い、その後聖堂を建て直されたと聞きましたが、行く機会がありませんでした。せっかく本郷台に来たのだから‥と、その催しの帰りに若者たちを車に乗せて鍛冶ヶ谷教会に寄ってみました。実に23年ぶりに訪れてみると、敷地全体がまったく変わっていて驚きましたが、素敵な聖堂が建っていました(と言ってももう建ってから10数年でしょうけど‥)。そしてなんとこっぱずかしいことに、聖堂の入り口にわたしの初ミサの時の写真が貼ってありました。23年前、わたしはひげを生やしていませんでした。そんなわたしの写真を見た若者たちは「うわー!ひげがない!」と携帯でバシャバシャ写真を撮りだす始末。「これ何年前?」「23年前」「ん~あたし生まれてない」ちょっとショック‥という感じで大騒ぎしてましたが、わたしの中では走馬灯のように、鍛冶ヶ谷を手伝っていた頃のことが次々と頭によみがえりました。当時はわたしも若かったし、若者も沢山いて、鍛冶ヶ谷の青年会ととても楽しい時を過ごしていました。‥が、いつも言いますがわたしは10代の頃不良になり、神学生になってからもまったくさっぱり更生してませんでしたので、ずいぶん多くの人に御迷惑をおかけしたし、つまづかせたでしょうし、御心配をおかけしました。鍛冶ヶ谷の方々も「こんなヤツほんとに司祭になれるのか」と思っていらしたことでしょう。それもあってか、初ミサで伺った時は皆さん本当に喜んで下さいました(笑)。そんなわたしが、今はなんと神学生の養成担当をしています。はじめは何度も断りました。「不良神学生だったわたしが神学生の養成なんてできませんよ」と。でも「あんたはいつも若者といるんだし、人がいないからダメ」と半ば無理やりやらされる羽目に‥。でも何年かやっていると、今の神学生を見てて「こいつらほんとに大丈夫か?」とか思ったりするわけです。でも今回久しぶりに鍛冶ヶ谷に行って色々と思い出し、「今の神学生、お前の頃よりだいぶマシ」と言われているようでとても反省しました。何よりも、こんなわたしが司祭になり、そして23年も司祭として歩んで来られたこと自体、これぞ「神さまのわざ」に他ならないでしょう。神はすぐれた人間を選ぶのでなく、わたしのように足りないところだらけの人間に種をまき、そして成長させて下さる‥司祭だけでなく、すべての人間に神さまはそのようにはたらかれるのだと思います。無論、沢山の人にも育てて頂きました。でもおおもとは、神のなさるわざ、神が始められること、なのでしょう。

偶然ではありますが、次の日曜は今年司祭に叙階された内藤新司祭を初ミサに迎えることになりました。どうぞ皆さん、内藤新司祭のこれからの歩みのためにお祈り下さい。そして、いつもわたしたちのうちに種をまき、不思議な形ではたらかれ育てて下さる神さまのわざに、共に目を向けたいと思います。



(マルコによる福音 4・26-34)

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


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