主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第26主日C年(2016.9.25)

[ルカ16:19〜31]





 

 『金持ちとラザロ』というタイトルの箇所です。このたとえはルかにしか出てきませんが、ラザロという名前はヨハネ福音書ではマルタとマリアの兄弟、イエスによって生きかえった人のものとして出てきます。「聖書と典礼」の注書きにもありますが、この「ラザロ」という名前はヘブライ語読みで〈エレアザル〉、“神は助けたもう”という意味だそうで、この名前そのものにたとえのヒントがあるとも言えます。ただわたしたちはこれをよくある因果応報的な話、つまり善人は天国に行って悪人は地獄へ‥と捉えがちですが、実は全く違います。金持ちの方は当てはまるにしても、ラザロの人格は何ら問題にされていない。「ラザロは貧しいけどいい人だった」とは書いてないのです。神の愛は無条件で無限なもの、中でもまず神が真っ先に目を向けられるのは貧しい人、小さくされた人、いたみを負う人、弱い立場に置かれた人。問題は金持ちがラザロの存在を知っていたにもかかわらず、目を向けようとしなかったことです。前述のような神の視点に立とうとしなければ、自分も神に愛されていることも忘れ、神から離れてしまい、取り返しのつかないことになる‥という警告なのです。「門」という言葉が出てくるのも偶然ではありません。聖書で「門」は家の内と外を分ける境界線であり、すぐ「外」にラザロがいたのに「内」にしか目を向けなかった金持ちの姿勢が問題にされています。

「内」と「外」といえば、教会共同体にもこの2つの面があると思われます。何かの折に話すことですが、「教会」と訳されたギリシャ語は〈エクレジア〉、“呼ばれた者の集まり”という意味です。教会はできたその時から、これは自分たちが勝手に集まっているのではなく、神によって呼び集められたものなのだという意識を持ちました。ただ、それだけでは意識は「内」に向いたままです。他方、使徒言行録が聖霊降臨をもって教会の誕生と位置付けたように、呼ばれたわたしたちは常に「外」へと派遣されています。だからこそ、ミサのたびにわたしたちは派遣の祝福を受けて、「さあ、自分たちの生きる場でキリストを証して下さい」と言われてるわけです。

ところで‥9/20の朝日新聞一面の『折々のことば』という欄に、こんな言葉が載っていました。「『民主主義には二度万歳をしよう。一度目は、多様性を許すからであり、二度目は批判を許すからである。ただし、二度で充分。E.M.フォースター』‥多数決という手続きから独裁政治が生まれることもあり、『三度も喝采する必要はない』と英国の作家は言う。陰湿な圧力がかかれば人々は『自粛』に向かう。権力にへつらう声は増幅される。少数の意見や立場を擁護するには、制度としての民主主義を凌ぐほどにしたたかな心得と工夫が要る。」‥なるほど、と思いました。いつも思うことですが、民主主義はいいものだけど、人間の「ものさし」としての限界を持っている。それが「多数決」という原則です。一方、神の「ものさし」はそれをはるかに超えて、一つひとつを大切にする。毎年成人式を迎える若者たちに、「選挙に必ず行って下さい」とお願いしてきました。それは民主主義云々でなく、日本には税金だけ払わされて選挙権を持たない人が沢山いる、あるいは選挙権があっても投票所に行かれない人がいっぱいいる、わたしたちはその人たちの分まで投票する必要がある、と思うからです。「人の分まで」という視点が、「外」に目を向ける第一歩になり得ます。ただ‥今年から選挙権が18歳に引き下げられたので‥どこで言いましょうかね。

まずは自分とは立場の違う人に目を向けること、それが「外」への視点につながるのでしょう。心を自分の外側、つまり神と人へといつも向け直すことができるよう、聖霊の助けを願いたいと思います。

                                         鈴木 真

                               


(ルカ 16:19-31) )

(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。) 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。

金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


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