主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


 主の降誕日中のミサB年(12/25)

[[ヨハネ1:1〜18]

8


 「永遠のみことばが人となり、わたしたちのうちに宿られた」

ヨハネ福音書の冒頭は「ロゴス讃歌」と言われ、ヨハネ福音書以前からあったものであると言われています。ヨハネ福音書ではそれを独自にアレンジして(『聖書と典礼』で《》に入れられている部分)編集されてますが、実に独特な表現でイエスがこの世に来られたことを記しています。

「ロゴス」とは「言(ことば)」と訳されたギリシャ語ですが、聖書の言葉(原語)に触れていつも気付かされることは、言わばすべて【神さま目線】である、ということです。「ロゴス」もここでは「神の言(ことば)」という意味で使われていて、先日説明した、ルカが好んで使う「レーマ」という言葉もまさに「神の言葉」。

この二つはちょっと概念としては違いますが。他方、日本語の「言」という字をを見てみると、上にある四本の線は「心」を横にしたものだそうで、下は「口」。つまり〈ことば〉とは心を口にするもの‥なのだそうです。なるほどそれはそれで深い意味がありますが、言ってみればこれは“人間目線”ですよね。別にだから違うとか劣っているということではなくて、文化の違いだと思うのですが、聖書では様々な言葉(概念)に「神の」とか「神が」という言わば条件が付けられていることに気付きます。

例えば「アガペ(愛)」。これも原型は「神の愛」です。神がどれだけわたしたちを無限に、無条件に愛しておられるか、それを表現したのが「アガペ」であるわけです。そしてだからこそ、聖書は「まず神さまが」と強調します。「人間が」ではなく。まず神さまが、先にわたしたちを愛して下さった。まず神さまが、わたしたちを呼び集めて下さった。いつも言うことですが、「教会」と訳された「エクレジア」は“呼ばれた者の集まり”という意味です。まず神さまが、〈わたし〉を選び、呼んで下さっている。「エクレジア」のもとにもなっている「クレートス(召される)」は、聖書の中で使われる時はほとんど「神からの召命」を表します。

主の降誕を祝うこの時、「まず神さまが」、イエスというお方をこの世に遣わして下さった、その大きな愛を、あらためて分かち合いたいと思います。

 

            カトリック百合ヶ丘教会主任司祭  鈴木 真

                               


ヨハネ 1:1-18

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

《神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく光について証しをするために来た。》

 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

   《ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。》


「ゆりがおか」トップページへ戻る