カトリック百合ヶ丘教会マリア会主催:音楽講座

[第二回] 2010年7月3日午前10時より:国本静三

   復活祭のできごと

      ― マスカーニ オペラ 「カヴァレリア・ルスティカーナ 」

A.マスカーニ

 ピエトロ・マスカーニイタリア(1863-1945)はリヴォルノ生まれ、リヴォルノ音楽院で学び、交響曲、オペラ、カンタータなどを残す。さらにミラノ音楽院で研鑽を深めるべく、ポンキエッリ(1834-86)に師事した。先輩プッチーニと交遊、一時同居。1年そこそこでミラノ音楽院中退、旅回りのオペラ団の指揮者、その後南イタリア、チェリニョーラの音楽院教師になる。

 1890年にローマの音楽出版社ムジカーレ・ソンゾーニョの一幕歌劇コンクールで「カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎の騎士道)」が当選し、彼の名実共に代表作となる。1895年にペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。ファシスト政権が誕生した時、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近したため、第二次世界大戦後、全財産が没収され、1945年ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた。

B.ヴェリスモ・オペラ

 「カヴァレリア・ルスティカーナ」はヴェリスモ・オペラといわれる。ヴェリスモ・オペラverismo operaの発端は19世紀末のイタリア・リアリズム文芸運動。ヴェルガ(1840-1922)の短編小説「カヴァレリア・ルスティカーナ」が、ヴェリズモ(リアリズム文芸運動)の典型とされる。シチリアの山間部を舞台、貧しい人々の暮らし、四角関係のもつれから起きる決闘と殺人を描いた。こうした動きに即応したのがヴェリスモ・オペラである。

 ヴェリスモ・オペラはドイツのヴァーグナーに対する最大の反撃でもあった。マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」とレオンカヴァッロ(1857-1919)「道化師」が代表的。この2つは1幕で、自然な舞台の流れをねらう。音楽書法も直接的な劇的効果をねらい、強烈で激しい表現がみられる。歌手による激しいフレーズ、管弦楽はしばしば興奮のるつぼに達するというようなやり方である。だがこのような表現様式は、長編オペラには向かない。たとえて言うならば交響曲に対する交響詩のような存在がヴェリスモ・オペラである。しかし、ヴェリスモ・オペラ運動を誰も繰返すことができなかった。それでもそのオペラ史における意義は大きい。こうした流れにプッチーニが登場し「ラ・トスカ」に取り組むが、内容はヴェリスモ的であってもヴェリズモ・オペラとはならなかった。

C.原作小説と劇作

 原作者ヴェルガ(1840-1922)はシチリア島、カターニア生まれ、十代から著作を始める。その後、カターニア大学で法律を学び、学費を注ぎ込んで出版活動をする。短編小説「カヴァレリア・ルスティカーナ」が1880年雑誌に掲載され、たいへん有名になった。この小説の舞台化が当時の大女優エレオノーラ・ドゥーゼのために計画された。ヴェルガは自身が台本化し、ジャコーザの協力も得た。1884年1月、トリノのカリニャーノ劇場で初演され、大成功を収めた。その後数年間、イタリア各都市で主演のドゥーゼはこの舞台劇を演じた。大女優ドゥーゼはサントゥッツァ役で、小説では脇役的存在だった人物をこの台本では、トゥリッドゥとかって相思相愛となりその子まで宿したにも拘わらず捨てられた屈折した女性とした。復讐としてトゥリッドゥの相手の女性の夫に告げ口をし、やがて後悔に苛まれる、という演劇的で性格的な役に深化させた。また、小説ではリアルに描写されている決闘場面は、は舞台裏で行われるように変更した。オペラも同様。最後の台詞「トゥリッドゥが殺された! Hanno ammazzato compare Turiddu!」の台詞は舞台版で加え、オペラでも継承されている。

D.作曲の経緯

 1888年7月1日、ムジカーレ・ソンツォーニョ出版社第2回コンクールが公示された。イタリア南部チェリニョーラの音楽院での低収入音楽教師の地位のマスカーニが(ピアノを借りる金にも事欠いていた、25歳)優勝すれば、イタリア楽壇に躍り出ることは疑いなかった。あと11ヶ月、題材選択を急ぐ。リヴォルノの同郷人で同年齢、幼少からの知己であり、教師をしながら詩作の道を目指していたトッツェッティに題材選定と台本作成を依頼。「カヴァレリア・ルスティカーナ」に決め、トッツェッティは台本が出来た部分からチェリニョーラのマスカーニに郵送し、マスカーニがそれに曲を付けるという作業を1889年1月4日から開始。23歳のリヴォルノ在詩人メナ-シを協力者とした。二人の台本作家が行った舞台劇の改編は村人の合唱シーンを創り、トゥリッドゥと人妻ローラの逢引場面をほとんど削除し、代わりにトゥリッドゥが決闘前に母に別れを告げる場面を加えた。台本の完成は1889年3月中旬頃と思われ、マスカーニはこの頃、叔母の支援金でやっとアップライト・ピアノを借り、1日18時間の作曲を行う。1889年5月中旬全曲を完成、5月27日に事務局に郵送した。

 第一次予選は1890年2月25日ローマのサンタ・チェチーリア音楽院で行われ、応募者には歌手や器楽奏者を同伴しての発表も認められ、人材をそろえる資金が無いマスカーニは自分でピアノを弾き、主なパートを自ら歌う。予選の3作品に!

 第二次審査は1890年5月17日、コスタンツィ劇場(現ローマオペラ劇場)の上演(初演)だった。聴衆には短くドラマティックな新作は衝撃的で、公演後作曲者は演奏者と共に60回ものカーテン・コールを受けた。第二夜からはチケットは完売、劇場は合計14回もの再演を行い、異例の大成功。審査委員会は全会一致で最優秀作品とす。賞金とは別にマスカーニは、ソンツォーニョ社と2年半で15000リラの支払い条件で独占契約を結ぶ。初演後3年間でイタリア66都市、イタリア国外の62都市で上演。マスカーニはヴェルディ後のイタリア・オペラ界の新星となる。

 親しみやすい音楽やアリアや歌を有し、この点においてはよい意味での娯楽性と大衆性を持つ希有なオペラといえる。

E.物語

 シチリア島のある村。復活祭の朝。トゥリッドゥはかって美しい女ローラの恋人であったが、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚した。除隊後帰郷したトゥリッドゥは、ローラを忘れるべく村娘サントゥッツァと婚約。ローラは嫉妬し、留守がちな夫アルフィオの目を盗んでトゥリッドと深い仲に戻る。これはサントゥッツァの知る

ところとなり、彼女は怒りのあまり、そのことをローラの夫アルフィオに告げた。彼は激怒。後悔するサントゥッツァ。

 復活主日ミサが終わり、男たちはトゥリッドゥの母ルチアの居酒屋で乾杯。トゥリッドゥとローラが連れだって来る。そこへ夫アルフィオが現れ、トゥリッドゥの勧められた杯を断る。トゥリッドゥはアルフィオに決闘を申し込む。トゥリッドゥは母に「もし自分が死んだらサントゥッツァを頼む」と言い残す。しばくすると「トゥリッドゥが殺された!」という女の悲鳴が二度響く。衝撃を受けたサントゥッツァと母は気を失い倒れる。 

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DVD UCBG9107 マスカーニ:《カヴァレリア・ルスティカーナ》

ジョルジュ・プレートル指揮、フランコ・ゼフィレッリ監督、ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団

サントゥッツァ…エレーナ・オブラスツォワ(Ms)、トゥリッドゥ…プラシド・ドミンゴ(T)

ルチア…フェドーラ・バルビエリ(Br)、アルフィオ…レナート・ブルゾーン(Br)

ローラ…アクセレ・ガル(Ms)  収録:1982年 発売:2009/6/24

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第三回:9月4日(土)午前10時〜12時  バロック・オペラの秘宝!

パーセル:オペラ「ディドーとアエネアス」

トロイの王子とカルタゴの女王の悲恋、ローマ建国の使命ため

ローマに向かう王子! 女王ディドーは?

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