主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

   もくじ 

年間第3主日C年(1/24) ルカ1:1〜4 4:14〜21

今日の福音は、ルカ福音書の冒頭の部分と、そして4章のイエスの宣教活動開始の場面とが結び合わされています。実はここに、ルカ福音書全体のテーマにつながるキーワードがいくつか置かれています。日本語訳で読んでもそれは分からないのですが・・。 

 その一つが「レーマ」というギリシャ語です。1:1「私たちの間で実現した事柄」1:4「お受けになった教え」と訳されていますが、要するにある場合には「言葉」と訳され、他のところでは「出来事」と訳されている単語です。1:38で天使ガブリエルの受胎告知にマリアがこたえる言葉「お言葉どおり、この身に成りますように」にも、この「レーマ」が使われています。この場合の「言葉」とは神のことばを指し、「レーマ」とは【神のことば=出来事】を意味する概念でもあるのです。つまり、”すべての出来事には必ず神のことば(神からのメッセージ)が置かれている”。逆もまたしかりで、”神のことば(聖書のメッセージ)は必ず出来事として実現する”、だから【神のことば=出来事】というわけです。そしてこのことがまさに、ルカ福音書の重要なテーマになっています。

 この「レーマ」という言葉に触れるたびに、これはすごいことだとつくづく思います。そして、自分のこれまでの歩みを振り返ってみると、まさに【神の言葉=出来事】だと気づかされることが多々あるのです。 

 ちょうど13年前、わたしは「日韓学生交流会」というものの立ち上げに関わりました。現在は司教協議会の青少年司牧部門が担当し、日本と韓国の学生の交流を目的とするもので、今年で題16回を数えます。

もともとは日韓司牧交流会から提案されたもので、1997年8月にパリで開かれたワールドユースデー(世界青年大会)に先立って、ルルドで第一回が開催されました。当時の日韓司教交流会の日本側の担当司教が濱尾司教だったこともあり、また東京、横浜両教区にカトリック学生の組織があることから、日本側は横浜教区青少年委員会と、東京真生会館学生センターが準備を担うことになりました。

なんでもそうですが、無いものをゼロから立ち上げるのはなかなか大変なものです。会議のために日本から二度ほど韓国に行き、また向こうからも担当者が何度か来日しました。通訳つきの会議なので時間が倍かかるし、細かいニュアンスなどがなかなか伝わらなかったりで苦労しましたが、なんとか第一回開催にこぎつけました。

わたしは小教区にいたので同行できなかったのですが、かわりに仕事でばかり行った韓国にその夏休みを使ってプライベートの旅行に出かけちゃいました。当時、山手教会の青年で在日韓国人の女性が、逆留学で韓国にいたので、彼女に色々と案内してもらいました。ソウルからバスで一時間ほどのところにある独立博物館(というような名称だったとおもうのですが・・)というところに行きました。広大な施設で勝手の日本統治時代の建物であった朝鮮総督府の屋根が飾ってあるなど、朝鮮半島と韓国の歴史が様々な形で展示してあるところでした。

施設に入る前に、案内してくれた彼女にこう言われました。「ここでは日本語は話さなさないほうがいい。からまれるかもしれないから」・・え?どうして?と戸惑いつつ入ってみると・・なるほどわかりました。そこには日本が朝鮮半島でしてきたありとあらゆる悪行が説明してあったのです。わたしも学生時代から、それなりに日本と韓国とのことは勉強してきたつもりでしたが、まだまだ知らないことがたくさんありました。朝鮮半島分裂の遠因を日本がつくったとよく言われますが、日本統治時代からあった抗日運動なども細かく展示され、その一部が中国共産党と結びついていった模様などもよくわかりました。なんとも暗澹とした気持ちでその施設を出たのですが、そこではたと思い当たることがありました。

日韓学生交流会立ち上げの中で、韓国側の担当の神父さんたちも大体わたしと同世代でした。とても親切に、そして誠実に対応してくださいましたが、どこかわだかまりがあるように感じていました。その理由がわかったように思いました。私の世代は戦争を知りませんが、親の世代は体験しています。日本と韓国では、やはり戦争の傷跡の大きさが違う、それが次の世代に受け継がれる重さもまったく違うのだ、と。これは自分の世代ではまだほんとうに打ち解けるのは難しいのでは・・と思わされました。そんなこんなで、せっかくjぷらいべーとで旅行に行ったのに、何か重いものをかみしめて帰ってくる結果となりました。

しかしそんな半ばうちひしがれたわたしに、日韓学生交流会とワールドユースデーから帰ってきた青年たちがうれしい報告をしてくれたのです。彼らは韓国の学生たちととても仲良くなり、盛り上がって第一回交流会は成功のうちに無事終わったということでした。そして彼らは帰ってきてから、韓国語を学び始めました。また交流会で知り合った仲間のところへ出かけて行ったり、向こうからも日本に訪ねて来たりしました。

最近の若い世代が本当にすごいなと驚かされるのは、様々な違いをいとも簡単に乗り越えて、同じ世代どうしがすぐ仲良くなれるところです。そんな彼らを姿を見ていて、わたしはエフェソ書のパウロの言葉が頭に浮かびました。

「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、・・敵意という隔ての壁を取り壊し・・両者を一つの体として・・十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:14〜16)・・これだ!と思いました。わたしの世代では難しかった《和解》が、次の世代の若者たちの中で、それもキリストによって見事に実現している。聖書で語られていることが、二千年のときを超えて、現代に生きる私たちの間に【出来事】として実現していることを心から実感したのです。

 ”日常におけるすべての出来事、どんなにちっぽけな出来事の中にも、必ず神からのメッセージが置かれている。聖書のことばは、わたしたちの日常の何気ないものの中に出来事として実現している。” そのことにいつも気付くことができるように、そしてそれを一人でも多くの人と分かち合うことができますよう、共に祈りたいと思います。


ルカによる福音 (ルカ1・1-4;4・14-21)

 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉(みことば)のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既(すで)に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈(けんてい)するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

 さて、イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日(あんそくび)に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

 「主の霊がわたしの上におられる。

 貧しい人に福音を告げ知らせるために、

 主がわたしに油を注がれたからである。

 主がわたしを遣わされたのは、

 捕らわれている人に解放を、

 目の見えない人に視力の回復を告げ、

 圧迫されている人を自由にし、

 主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日(きょう)、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


「ゆりがおか」トップページへ戻る