「王であるキリスト」の祭日は、年間最後の主日に祝われる日として1925年に定められ、<イエス・キリストの「王としてのあり方」に心を向ける日>とされています。
「王」というタイトルをキリストにつけることに、若干違和感を感じる人も少なくないのではないでしょうか。実はこれには、聖書における「王」の位置付けと、イスラエルの民の歴史の流れが背景としてあるのです。
旧約の時代、エジプトを脱出したイスラエルの民はパレスチナに定住し始めますが、他国のような王政をなかなか導入しませんでした。それは「神こそわたしたちのまことの王、神にのみより頼む」という信仰から、人間の「王」を戴くことに抵抗があったからです。しかしペリシテとの戦いという現実的な理由からどうしても「王」が必要になり、渋々ながらイスラエルも王政を導入します。このとき、「王はあくまでも神によって選ばれる」「王は国民の誰よりも神に忠実でなければならない」「同胞を見下して高ぶることなく、常に戒めを守ること」など、かなり厳しい規定が律法に定められました。初代のサウル王をはじめ、預言者を通して王に選ばれた人は、<神の選び>のしるしとして、祭司から頭に油を注がれました。(今日の第一朗読には、ダビデが長老たちによって油を注がれる場面が描かれています。)今日の福音に何度か出てくる「メシア」という言葉は、もともとは<油注がれた者>という意味で、「王」を表す言葉だったのです。イスラエルが「王」ではなく「メシア」という言葉を使ったのは、王はあくまでも神に選ばれた者であり、《神との関わりの中で「王」であること》を確認し、強調するためでした。しかしイスラエルの王たちはやがて律法を忘れ、神から離れていってしまいます。人々はイスラエル王国が滅亡した後も、「まことの王である神」への信仰を持ち続け、<神は必ず我々のためにまことの《メシア》を世に送って下さる>と信じていました。この頃から「メシア」は《救い主》の意味で使われるようになったのです。「メシア」はヘブライ語で、そのギリシャ語形が「キリスト」です。初代教会において「イエス・キリスト」という名称はもともと、「イエスこそメシア、キリスト(救い主)である」という信仰告白の言葉であったといいます。「キリスト」はもともと《まことの王》を表す言葉でもあるわけで、ここには人間のどんな「王」とも違うお方の存在が提示されている、と言ってもいいのではないでしょうか。
今日の福音の箇所がそうであるように、イエスの十字架の場面では特に、ローマ帝国やユダヤ人たちがイメージした「王(メシア)」と「救い主(メシア)」であるイエスとの決定的な違いが浮き彫りにされます。まず十字架にかかる「王」などは考えられなかったでしょう。人々は「お前がメシアなら自分を救え」と言ってイエスを罵りますが、イエスは生涯において自分のためにその力を使われることは一度もありませんでした。それどころか、十字架上でさえ人を救われる方なのです。イエスが《メシア》である、ということは、違う言い方をするならば神がどのようなお方か、何を人間に望んでおられるかを示すしるしである、と言ってもいいでしょう。第二朗読の『コロサイの教会への手紙』の中で、パウロは「キリストは見えない神の姿をあらわす方」であると言っています。神が御自分のつくられた一つひとつのいのちをどれほど愛しておられるか、またそのいのちがどのように生きてゆくことを望んでおられるか‥そのことを御自身の命をもって示されたイエスが《メシア(キリスト)》と呼ばれるわけです。「王であるキリスト」という言葉のもつ深い意味が、そこから汲み取れるのではないでしょうか。パウロはまた、「御子はその体である教会の頭です」とも言います。人間のどんな「王」とも違う《キリスト》を頭とする教会が、どのような共同体であるのかも、すでにここに示されているように思います。
わたしたちが本当の意味でいつも[キリストの教会]であり続けることができるよう、「王であるきリスト」の日に御一緒に祈りたいと思います。
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