毎年この季節になると、「ヨセフ」という人物についてしばし考えさせられます。ルカ福音書がイエス降誕の物語をもっぱら[マリア側]から描くのに対し、マタイはすべてを[ヨセフ側]からのこととして描こうとしますが、男性にとってはその分マタイの方が想像し易いかもしれません。まあそれにしても‥自分の婚約者の妊娠が発覚、しかも自分には身の覚えがない‥なんて、いわば最悪の悪夢ですよね。考えられない。その後夢でお告げがあった、とはいうものの‥それを受け入れたヨセフという人は、ほんとにすごいなと思ってしまいます。神さまのわざとは、えてして人の目からは〈ありえない〉と見えることの中に行われ‥しかもそれは逆に〈ありえない〉ほどに大きな恵み‥ということでしょうか。マタイではここでイザヤ書を引用して「インマヌエル」という名を提示します。[神がいつもわたしたちと共にいて下さる]‥そのしるしとなるお方が、そんな形で世に来られた‥なんとも不思議なことですが、その大きな恵みは二千年を経た現在もわたしたちのうちに満ち溢れている、と言えるでしょう。
実は昨日、わたしの出身教会である由比ガ浜教会で結婚式を頼まれて行ってきました。かつてわたしが神学生で教会学校のリーダーをしていた頃、小学生だったお嬢さんです。たまに出身教会に行くと、いつもなんか不思議な気持ちになります。場所や建物には色々と思い出があるわけですが、人だけがものすごい勢いで変わってゆく‥そんな風に思えてしまうんですね。単に自分が歳を取ったしるしなんでしょうが、特に子供の成長は早く感じます。わたしが司祭になった時に生まれた子がもう大学生になっていて、「お前もうそんなに大きいの!」と驚かされたり。そして、いつもどこかで色んな人がつながっています。先週、由比ガ浜の子供たちが数人来た時に、リーダーの一人がこちらのリーダーたちと学校の同級や後輩だったりしたことが判明して驚いた、ということを申し上げましたが、昨日もある方から「わたしの孫がカリタスなんです」と言われて驚きました。そういえば昨年の今頃にカリタスのお母様方の集まりに行った時に、ある方が「わたしの母は由比ガ浜教会で‥」とおっしゃっていたのを思い出しました。
よく引き合いに出すことですが、実に〈教会は狭い〉‥。でもこのことこそ、「インマヌエル」つまり神さまがいつもわたしたちと共にいて下さるしるしに他ならないと実感します。神が常に人と人とをつなげて下さっている‥それが[共にいて下さる]しるしなんだ、と。そして言わばわたしたちはそのつながりによって世界中に家族がいる、それはキリスト者にとっての大きな強みであるのと同時に恵みでもあるのだと思います。
今年も世界中でクリスマスが祝われています。しかしその大きな恵みは、二千年前、〈ありえない〉出来事の中に神が始められたわざであることを、御一緒に思い起こしたいと思います。
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