『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
人間は罪を犯さずに生きることなんてできるはずがない、2000年前にイエスの周りにいた人たちも皆それを知っていたからこそ、一人ずつ立ち去っていったのでしょう。様々な機会にお話していることですが、聖書において「罪」という言葉が使われる時、それは一つひとつの行為を指すのではなく、人間の状態を表しています。“神から心が離れてしまっている状態”。日本語の「罪」の意味とは少々異なっていると言わざるを得ないでしょう。ちょうどその反対の意味を持つ概念、つまり“神に心が向いている状態”が実は「祈り」です。ですから、わたしたちは祈っている時以外はたいてい「罪」の状態にあるわけで、だからこそ《すべての人間は神の前に罪人である》と言われるのです。「罪」と無関係に生きられる人など一人もいません。ところで、イエスの時代の人たち、特にファリサイ派や立法学者たちは、立法を一つの物差しにして、それを守らない人たちに「罪人」というレッテルを貼って差別していました。今日の福音の箇所では、そんな人たちにイエスは「罪」の本質を思い起こさせます。
わたしたちにとってもう一つやっかいなのは「ゆるし」ではないでしょうか。人をゆるすことはそう簡単ではありません。特に自分や自分の大切な人が深く傷つけられたような時、それをした人を本当にゆるすことはなかなかできないし、いったんゆるしたと思っても、何かの折にされたことを思い出すと、また新たな怒りがふつふつと湧き起こって来てしまったりします。罪をおかさないことと本当に人をゆるすこと、この二つは実は人間の力ではできないことなのかも知れません。そうであるならば、もうこれは神様にお任せするしかないことなのでしょう。
ただ一つ思うのは、わたしたち人間のレベルでの「ゆるす」こととは、その人に対する感情を変えることではないのでは・・・ということです。わたしたち人間は、自分の感情を自分でコントロールすることなどそう簡単にできません。ある程度抑えることはできても、“変える”のは少なくともすぐには不可能です。先ほどの「罪」「祈り」の概念とある意味で逆の方向を持つのが「愛する(アガペ)」ことです。それはまさに一つひとつの行為を指すことであり、心の状態、つまり感情を意味するのではないと言われます。ですから、聖書で言う「愛する」とは人に対して持つ思いではなく、その人のために実際に何かすること、行動そのものを意味しています。“嫌いな人を好きになる”ことではないのです。「ゆるす」とはその反対かな・・・とも思います。つまり、その人に対してマイナスなこと・・・仕返しや復讐といった・・・を《しない》こと。まぁそれくらいならなんとかできそうです。
いずれにしても、神様だけが「罪」を【消す】ことができるのです。わたしたちが本当に人をゆるせないことも、ある意味でそれは「罪」にほかなりません。神様だけがそれを、いつでもなくしてくださる。だからこそ、神が問題にされているのはいつも「今」と「これから」なのです。「今まで」はいくらでも“チャラ”にしていただけるのですから。ただ逆に、〈自分〉と〈今まで〉にしがみついているとその神のゆるしと愛が見えてきません。先週の『放蕩息子のたとえ』でもそうでしたが、〈自分は正しい〉〈自分は今までこんなによくやってきた〉という意識を持つ時、人間は往々にしてそうでない人を裁き、そうでない人を愛して下さる神が不公平に思えてしまうのです。だからこそ、わたしたちは自分が罪人であることをいつも思い起こす必要があるのでしょう。
さて、今日は共同回心式です。待降節のときにも申し上げたように、共同回心式のいいところは、人の分まで「ごめんなさい」と言えることです。わたしという個人の罪ばかりではなく、わたしたち教会共同体として、日本に暮らしている者として、そして地球に生きる人間として、神から離れてしまっていたことを思い起こし、共にゆるしを願いましょう。そして、キリストの受難と復活を記念する時である聖週間を迎えるにあたって、「愛する」行動への新たな決意を共にいたしましょう。
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