主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

復活節第4主日C年(4/25) ヨハネ10:27〜30

 毎年復活節の第四主日には、ヨハネ福音書の10章からの箇所が読まれることになっています。ヨハネ10章はもっぱら羊と羊飼いのたとえに終始した内容になっていますが、これはイエスとわたしたちの関係をたとえているものと言われます。「わたしは彼らをしっており」・・・『聖書と典礼』の注釈にもありますが、ここで「知る」と訳されている言葉は、単なる知識として知るのではなく、深い交わりを意味するもの、つまりは “ 知り尽くしている ”といったニュアンスの言葉なのだそうです。わたしたちは、神様に”知り尽くされて”いる・・・まぁ当たり前と言えばそうですが、やはりすごいことだと思います。10章の他の箇所では、こんなふうにも言われています。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(10:3)・・・これもすごいなぁと思います。わたしたちは、自分を知り尽くしておられる方から、“名指し”で呼ばれている。他の誰でもなく、《このわたしが》という形で。そのことを思う時、ちょっと下らないことを思い出します。大学生の時、当時はまだ学生の名前を呼んで出席をとる講義がありました。そんな時、「代返」というズルをするのです。人の分まで返事をし、あるいは自分の分まで返事をしてもらって講義をサボる。ある時、わたしは講義の開始直前になんと四人の「代返」を頼まれ、パニックになりました。声色を変えながら、自分を含め五人分の返事をし・・・いやぁ あれは絶対にバレていたと思うのですが・・・。神様に「代返」はききません。「いや〜ちょっと今日は都合が悪いんで誰か他の人に・・・」 「今は忙しいんで来週また・・・」というのは通用しない。《今、他のだれでもないあなたが》と、わたしたちはいつも呼ばれているのです。

 ちなみに聖書で「名前」とは、それを持つ者の本質を表わすもの、と言われます。例えば『主の祈り』で、「御名が聖とされますように」と祈りますが、日本語ではちょっと分かりにくい言葉ですよね。「御名」とは神様の名前ということですが、神の名前??と思ってしまいます。「名前」というものの意味から考えるならば、ようするにこの祈りは ”神様の本質、つまり神がどのような方であるかが広く知られますように”という祈りなのです。また、ミサの奉献文の中で、教皇と司教の名前をあげる部分がありますよね。実は長年わたしは”どうせ偉い人の名前を読み上げているだけだろ、フン”などと思っていたのですが、恥ずかしながら一昨年やっと本当の意味を知りました。あの祈りの一文は「全教会を愛の完成に導いてください」という言葉で結ぶのですが、「全教会」と言うからには、本当はすべてのキリスト者の名前を読み上げたい。でもそんなことは不可能なので、せめて教会の代表者である教皇、そして教区の責任者である司教の名前を読み上げるのだそうです。なるほど、これもいつも「名指し」で呼ばれているしるしなのですね。

 すべての人間は、神を信じているか否かにかかわらず、またどんな宗教に属していようとも、みんな神から名指しで「あなたでなければダメ」という形で呼ばれ、その人間でなければできない特別の使命、役割が与えられている・・・それこそがわたしたちにとっての「召命」、召し出しなのだと思います。そしてそれは、本当にすごいことですね。

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」・・・確かに羊とは弱い動物で、いつも羊飼いに守られていないと生きてゆけないことから、羊は本能的に羊飼いの声を文字通り「聞き分けた」のだそうです。しかし、わたしたちは果たして神の呼びかけを「聞き分け」られているのだろうか・・・と考えると少々不安になります。わたし、という個人を考えるとそう思ってしまいますが、「わたしたち」という枠で見てみると、また違う視点に立てるのではないでしょうか。

 昨日の午後、知り合いの結婚式に呼ばれて東京の高円寺教会に行ってきました。お嫁さんのほうが秦野教会で以前から知っていた仲間だったのですが、新郎のほうも東京の教会の信徒で、共に教会活動で知り合ったカップルでした。ゆえに色んな教会の色んな青年たちが沢山来ていて、「あれ? 君なんでここにいるの?」とか、「へぇ、あなたあの人の知り合いだったんだ」などといった会話がそこここに聞こえていました。わたし自身、意外な人との再会がいっぱいあって、その時不思議に「これか!」と思ったのです。二人の結婚という出来事を通して、もともとつながっていた人とまた別のつながりが与えられる。キリストを通して、いろんな人がいろんな形でつなげられていく・・・まぁ教会とはそういう場であるわけですが、そんな交わりの中にいること自体が、神の呼びかけに半ば無意識のうちに聞き従ってるしるしなのではないか、そんなことを強く感じました。

 無論教会ばかりでなく、様々な場で、様々な時、神はわたしたちを呼ばれています。しかも、前にも申し上げたように、神の呼びかけは一回限りではなく、繰り返し呼ばれ続けているのです。それも「名指し」で。そんな神の呼びかけに共に耳を傾け続けてゆかれるよう、共に祈りたいと思います。


ヨハネによる福音(ヨハネ10・27-30)

 そのとき、イエスは言われた。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」
 


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