ペトロの信仰告白と、それに続く第一の受難予告の箇所です。これはマタイ・マルコ・ルカの共観福音書すべてに載っているものですが、各福音書によって微妙に強調点が違っています。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」他の箇所にも出てくる言葉ですが、わたしたちには何かとても厳しいものに思えてしまいます。「自分を捨て」・・ちょっとドキッとする表現ですが、もとは<自分よりも他人を優先する>という意味の言葉だそうです。同じく「自分の十字架を背負う」などと聞くと、どうしてもキリストと同じように十字架を・・?とイメージしがちです。勿論ここには殉教というニュアンスもあるのですが、原文の直訳では<
十字架の印を押される>となるそうで、要するにキリスト者として生きることを指している言葉です。そしてルカはここに「日々」という言葉を挿入することで、<殉教>という特殊な状況ではなく、日常の中で福音の価値観を生きてゆくことを強調している、とされています。つまりキリストと同じように、わたしたちも日常の中で人の痛みや苦しみをともに担ってゆく、ということでしょうか。しかしそれは言葉で言うほど簡単ではないですよね。
昨年の教会報にも書きましたが、わたしはロマ書12:15の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉が大好きです。わたしたちにできることはまずそれでしょう。と言うより、わたしたちには人の喜びや悲しみに反応することのできる「心」が与えられている。創世記に「神は御自分に似せて人を創られた」とあります。わたしは長いことこの箇所が嫌いで、何で人間だけが特別なんだろう・・とずっと疑問に思っていました。むしろすべてのいのちがつながっているとする仏教的な思想の方が、自分にはしっくりくるように感じていたのですが、ある時次のことに気付きました。旧約聖書が神を表現するのに「神は御自分の創られたすべてのいのちの痛み・苦しみに決して無関心ではおられない方」というのがありますが、なるほど人間にもその神と同じ<心>が与えられているのだ、と。神が「人間を御自分の似姿に創られた」とはそういう意味なのかな・・と。ただわたしたちはその<心>を常に他人に向けていなければ、人の痛みや苦しみを見過ごしてしまう、あるいはそれに鈍感になってしまうのも事実なのでしょう。
いずれにしても、わたしたちは人の痛みや苦しみを自力では担いきれません。日々神につながり続けることによって、神がそれを可能にして下さるのでしょう。第二朗読でパウロは「あなたがたは皆、キリストを着ている」と表現します。これは[聖書と典礼]の注書きにもあるように、<包まれている>状態のことだそうです。キリストに触れたわたしたちをいつも神が<包んで下さっている>ことに信頼して、わたしたちが常に「キリスト者」であり続けることができますよう、神の助けを共に願いたいと思います。
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