ここは、「主の祈り」の箇所です。わたしたちが普段唱えている「主の祈り」は、『聖書と典礼』にあるようにマタイ6章の箇所がベースとなっていますが、現在の口語訳ではルカの箇所からの採用部分もあります。
まずここでの最初のポイントは、「父よ」という呼びかけです。集会祈願やアレルヤ唱にもあったように、この「父よ」と訳されている語はイエスが話していたとされるアラマイ語の「アッバ」という言葉で、幼い子供が父親に向かって呼びかける幼児語なのだそうです。日本語なら「パパ」でしょうか。イエスは御自分が父である神に向かう時はいつも、「アッバ」と呼びかけました。そして弟子たちにも同じように呼びかけよ、と言われたのです。このルカの箇所の情景がわたしは何気に好きなのですが、弟子の一人がイエスに「先生、祈りを教えて下さい」というと、イエスは言われるわけです。「じゃあこう祈りなさい」・・そして天を仰いで「パパ」・・弟子たちは「は?」と一瞬目が点になったことでしょう。確かに旧約でも神を父親に例える表現はありますが、「パパ」なんて親しげな呼びかけをした人は誰もいなかった。でもイエスは「いや、パパだよ」と言われるわけです。そしてこの一言に、神とわたしたちの関係が言わばすべて表わされている、と言ってもいいでしょう。わたしたちにとって神とは幼子にとっての親のような存在、幼い子供は200%親に依存して生きています。また逆に、神にとってすべてのいのちは親にとっての赤ん坊のようなもの、自分の命よりも大切なかけがえのない存在、というわけです。だからこそ、とイエスは言われます。だからこそ、神に何でも願いなさい、と。神はわたしたちに必要なものを必ず与えて下さるのだから。次に続く「真夜中に訪ねてくる友人のたとえ」では、「しつように頼めば」という言葉にどうしても目がいってしまい、そうか、神様にもしつこく祈ればいいんだ・・ととらえがちですが、実はそこに眼目があるのではありません。人間だってしつこく頼めば、友人だからというよりもそのしつこさ故に願いを聞くでしょう、ましてや神は、というわけです。ましてや神は、しつこく頼まなくても必ず願いを聞いて下さる。続く「求めなさい」でも同じです。「あなたがたは悪い者でありながらも」とは、ことさら悪い人間を指しているわけではなく、神と比べればすべての人間は不完全で罪深い、という意味です。そんな人間でも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。ましてや神は、ということです。ただここで、「神に祈り求めることは必ず聞いていただける」というのですが、ちょっとイエスさんの意地悪なところがあります。それが、<いつ、どこで、どのように>とは言われない。それがいつなのか、またわたしたちが想像しているような形でか、またわたしたちにとって都合の良い形でなのか・・わからないわけです。でも「必ず聞いて下さる」と。もしかしたら、わたしたちが求めていることが、自分の想像や都合とは違った形でもう叶えられているものもあるのかもしれません。往々にして後から気付く事も少なくないでしょう。
いずれにしても、今日のテーマは<祈ることの大切さ>だと言えます。重要な点が二つ、まず「主の祈り」で「わたしたち」と祈れと言われていることです。わたしたちはどうしても自分の願いばかりを祈りがちですが、「わたしたち」という視点で祈ること、それがいわば福音の観点です。次に、人のために祈ることの大切さ。「神は祈りを必ず聞いて下さる」わけですから、誰かのために祈った時、その祈りは祈られた人の何らかの支えや力に必ずなるはずです。祈られた人はそのことに気付かないかもしれません。でもわたしは、実に沢山の人の祈りによって支えられていることを、特に司祭になってから強く感じています。つまり逆に言えば、わたしたちはいつも、誰かの祈りによって支えられているのです。そうした<祈りによる交わり>は、わたしたちにとっての大きな恵みでしょう。そしてそこから考えると、「祈り」は立派な<行動>と言えるのではないでしょうか。
「祈る」ことを教えて下さった主に感謝し、いつでも神に共に心を向けることができますよう、御一緒に祈りたいと思います。
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