「わたしについて来なさい」‥イエスに最初に呼ばれた弟子たちの姿から、わたしたちは様々な事を学べるのではないかと思います。一般的に考えれば、ふつう弟子が師を選ぶものですが、イエスはすべての弟子を御自分から選ばれました。わたしたちキリスト者も、言わば「イエスの弟子」となった人間ですから、同じことが言えるでしょう。わたしたちもまた、イエスに「呼ばれた」者なのです。ただ人間的なレベルで見れば、それは自分の決断や行動ということになるでしょう。教会に来ようと思ったのも自分なら、洗礼を受けようと決意したのも自分なのですから。でも見方を変えると、それはすべて神のわざであると言えるのです。何かの折に引き合いに出しますが、「教会」と訳されている〈エクレジア〉という言葉は、“呼ばれる”という言葉の派生語だそうで、すなわち教会とは〔神に呼ばれた者の集まり〕を意味する言葉です。使徒たちはもちろん直接イエスに呼ばれたわけですが、「教会」ができたその時すでに、そこに集まった人たちは自分たちが“呼ばれた”こと、〔呼ばれた者の集まり〕であることを強く意識していたことがよくわかります。
これも何かの折によく話すことですが、わたしははなはだ不純な動機で神学校に入った人間でしたので、入った後にずいぶんと悩みました。「自分は果たして司祭になるんだろうか」「自分は司祭になりたいのか」「自分は司祭になるのにふさわしい人間なのか」‥そんなことをいくら考えていても一向に答えが見つからず、もう面倒臭くなって「神さま、もうわからないから好きにして下さいよ」ととんでもない祈りをすると、その時“あっ”と気付きました。今まで「自分が」という方向でしか考えてなくて、「神さまが」という視点で見たことがなかった。では、神さまは何を望んでおられるのだろう‥と。そこからすべてが変わりました。今まで自分が選んだ、自分が決断した、自分がやってきたと思っていたことが、実はすべて神さまが用意してくださった道、神さまのわざであったことが見えてきたのです。そして、だからわたしは司祭になりました。
わたしたちは人生において、「神」が主語になる瞬間があるんだと思います。その時自分が神さまに呼ばれていること、呼ばれていたことに気付かされる。往々にして後から気付くことが多いんですけどね。そう考えると、すべてのいのち、すべての人は神に呼ばれていると言えます。一人の例外もなく、キリスト者であるなしに関わらず、神を信じているか否かにも関係なく、すべての人は神から選ばれ、その人でなければできない役割が与えられている。ただついわたしたちは、「自分」と考えてしまう。自分がしたいこと、自分が行きたいところ、自分がなりたいもの‥などと。そんなわたしたちだから、神の選びはいつも意外な、また予測していなかった形で来るものと映ってしまいがちになるのでしょう。でもすべては召命であり、神からの選び、呼びかけなのです。
結婚も召命であると言えます。だからこそ、教会はそれを大切に考えるわけです。でももっと言えば、「家族」も神の選びの場かもしれません。先週の第一朗読(イザヤ49:5)にこんな言葉がありました。「母の胎にあったわたしを御自分の僕として形づくられた主はこう言われる」‥旧約では結構出てくる表現です。お母さんのおなかの中ですでに、わたしは神に選ばれていた‥と。つまりわたしたちはこの世に存在したその時から、神に選ばれている。まぁわたしたちはみんな神さまに望まれてこの世に生まれてわけですから、当然のことなのでしょうけど、それにしてもすごいことだなぁ‥とつくづく思いました。
神の選びと呼びかけの神秘に、共に心を向けたいと思います。
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