主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

年間第3主日A年(1/23)
マタイ
4:12〜23

 「わたしについて来なさい」‥イエスに最初に呼ばれた弟子たちの姿から、わたしたちは様々な事を学べるのではないかと思います。一般的に考えれば、ふつう弟子が師を選ぶものですが、イエスはすべての弟子を御自分から選ばれました。わたしたちキリスト者も、言わば「イエスの弟子」となった人間ですから、同じことが言えるでしょう。わたしたちもまた、イエスに「呼ばれた」者なのです。ただ人間的なレベルで見れば、それは自分の決断や行動ということになるでしょう。教会に来ようと思ったのも自分なら、洗礼を受けようと決意したのも自分なのですから。でも見方を変えると、それはすべて神のわざであると言えるのです。何かの折に引き合いに出しますが、「教会」と訳されている〈エクレジア〉という言葉は、“呼ばれる”という言葉の派生語だそうで、すなわち教会とは〔神に呼ばれた者の集まり〕を意味する言葉です。使徒たちはもちろん直接イエスに呼ばれたわけですが、「教会」ができたその時すでに、そこに集まった人たちは自分たちが“呼ばれた”こと、〔呼ばれた者の集まり〕であることを強く意識していたことがよくわかります。

これも何かの折によく話すことですが、わたしははなはだ不純な動機で神学校に入った人間でしたので、入った後にずいぶんと悩みました。「自分は果たして司祭になるんだろうか」「自分は司祭になりたいのか」「自分は司祭になるのにふさわしい人間なのか」‥そんなことをいくら考えていても一向に答えが見つからず、もう面倒臭くなって「神さま、もうわからないから好きにして下さいよ」ととんでもない祈りをすると、その時“あっ”と気付きました。今まで「自分が」という方向でしか考えてなくて、「神さまが」という視点で見たことがなかった。では、神さまは何を望んでおられるのだろう‥と。そこからすべてが変わりました。今まで自分が選んだ、自分が決断した、自分がやってきたと思っていたことが、実はすべて神さまが用意してくださった道、神さまのわざであったことが見えてきたのです。そして、だからわたしは司祭になりました。

わたしたちは人生において、「神」が主語になる瞬間があるんだと思います。その時自分が神さまに呼ばれていること、呼ばれていたことに気付かされる。往々にして後から気付くことが多いんですけどね。そう考えると、すべてのいのち、すべての人は神に呼ばれていると言えます。一人の例外もなく、キリスト者であるなしに関わらず、神を信じているか否かにも関係なく、すべての人は神から選ばれ、その人でなければできない役割が与えられている。ただついわたしたちは、「自分」と考えてしまう。自分がしたいこと、自分が行きたいところ、自分がなりたいもの‥などと。そんなわたしたちだから、神の選びはいつも意外な、また予測していなかった形で来るものと映ってしまいがちになるのでしょう。でもすべては召命であり、神からの選び、呼びかけなのです。

結婚も召命であると言えます。だからこそ、教会はそれを大切に考えるわけです。でももっと言えば、「家族」も神の選びの場かもしれません。先週の第一朗読(イザヤ49:5)にこんな言葉がありました。「母の胎にあったわたしを御自分の僕として形づくられた主はこう言われる」‥旧約では結構出てくる表現です。お母さんのおなかの中ですでに、わたしは神に選ばれていた‥と。つまりわたしたちはこの世に存在したその時から、神に選ばれている。まぁわたしたちはみんな神さまに望まれてこの世に生まれてわけですから、当然のことなのでしょうけど、それにしてもすごいことだなぁ‥とつくづく思いました。

神の選びと呼びかけの神秘に、共に心を向けたいと思います。

マタイによる福音マタイ4:12〜23

 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 「ゼブルンの地とナフタリの地、

 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、

 暗闇(くらやみ)に住む民は大きな光を見、

 死の陰の地に住む者に光が射(さ)し込んだ。」

 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣(の)べ伝え始められた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国(みくに)の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患(わずら)いをいやされた。


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