「求める者には与えなさい」「敵を愛しなさい」ここ何週かマタイ5章の箇所が続けて読まれていますが、今日の箇所も一見すると厳しすぎるもののように感じてしまいます。
カトリック新聞2月20日号の『キリストの光・光のキリスト(今週の福音の解説)』の欄に、福岡教区の杉原神父さんが「与える」ということについてシルヴァスタインというひとの書いた『おおきな木』という絵本を紹介しています。これは実はわたしもずっと前から知っている有名な絵本で、ほう、と思って久しぶりに読みかえしてみて、最初にこの本を読んだ時に衝撃を受けたことを思い出しました。一本のりんごの木が、一人の男の生涯に渡って彼に自分のすべてを与えつくす、という話です。実、葉、枝、幹をすべて与えて、最後は切り株になってさえ、与えようとする。そしてそれぞれ与えた後に必ず「きはそれでうれしかった」と書くのです。カトリック新聞の中でも一部紹介されていますが、この本の訳者である本田錦一郎さんがあとがきにエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を引用しながら、次のように書いています。「愛とは第一に与えることであって、受けることではない」「『与える』ことは人間の能力の最高の表現なのであり、『与える』という行為においてこそ、人は自分の命の力や富や喜びを経験することになる」‥確かに、イエスというお方がその生涯に渡って示されたのは言わば「与える愛」でした。御自分のすべてをもって、そのいのちさえも「与え尽くされた」。何かの折に話すことですが、新約聖書において「愛」「愛する」と訳されているのはアガペというギリシャ語で、感情ではなく行為・行動をあらわす言葉だそうです。そこからするなら、「愛する」とは“与えるという行為”と言い換えてもいいのかも知れません。
第一朗読のレビ記で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とありますが、旧約にこの言葉があるのはちょっと驚きです。わたしたちはまあ、たいていは何かと人に「与えている」のでは‥と思いがちですが、わたしなんかは一番いいところは自分のために取っておこう‥などと時々思ってしまいます。でも「自分自身を愛するように」ということは、そのとっておきの部分も差し出せということですから、となると‥うーん‥という感じですね。さらに今日の福音では、イエスはその「隣人」という枠さえも取り去ってしまいます。「敵をも愛しなさい」すなわちすべての人を自分自身のように愛せよ、と。そうなるともう、自力では無理ですね。これは神さまが可能にしてくださることでしょう。ただ考えてみると、わたしたち自身が実は常に「与えられている」存在です。神さまから、そして沢山の人から。そのことに気付く時、ではわたしたちも、与える側に立ちましょう‥と思えるのかも知れません。
少しでも与える存在になれるよう、またそれを神さまのわざによって行わせたいただけますように、祈りたいと思います。
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