「サマリアの女」というタイトルの、割に有名な箇所です。
ヨハネ福音書は一つひとつの話がとても長くて、今日の「聖書と典礼」では短縮版になっていますが、それでも長いですね。イエスがサマリアで宣教したということを語るのは、実はヨハネのこの箇所だけです。エルサレムを中心としたユダヤ地方とサマリア地方とは、歴史的経緯からイエスの時代は仲が悪く、そのことも影響しているのかもしれません。とにかく、そんなサマリア地方のある女性とイエスとが出会うことからこの話は始まります。
「正午ごろのことである」と福音書がわざわざ書くのには意味があります。パレスチナ地方は昼間暑いので、正午頃には誰も井戸に水をくみになんか来ないそうです。そんな時間に井戸に来る女性は、人目をはばかる存在だということです。後にイエスによって明らかにされますが、この女性は結婚と離婚を繰り返しているような人でした。イエスとこの女性との会話自体は、ヨハネの福音書が好んで使う言わば「噛み合わない会話」の形となっています。
イエスは井戸の水のことから「わたしが与えるのは生きた水であり、その水を飲む者は決して渇かず、それはその人のうちで泉となって流れ出る」と言われます。ようするに、神のわざ、神の働き、神の恵み‥あるいはみことば、と言ってもいいかもしれません。しかし女性は文字通りとって「渇かないなら、くみに来る必要がないようにその水をください」といいます。ヨハネではしばしばこうした噛み合わない会話を通して、イエスが大切なメッセージを提示するという形が使われています。ポイントは、自分が話している相手がメシアだということに気付いたこの女性がとった行動です。短縮版の方には載っていませんが、なんと人目を避けていたはずのこの女性、水がめをそこに置いたまま町に走っていって人々に言います。「さあ、来て下さい。わたしはすごい人と会った。たぶんメシアです」‥キリストとの出会いは、出会った人を宣教者にする‥その人が意識しているか否か、気付いているか否かに関係なく、です。イエス御自身が言われているように、まさにみことばがその女性の中で泉となって流れ出た。人目をはばかっていたこの女性を通して多くの人がイエスを信じた、と福音書は述べます。キリストと出会った人が媒体となり、さらに多くの人がキリストと出会う。「宣教」とは人間業ではなく、あくまでもその主体は神さまだということです。
わたしたちも同じでしょう。わたしたちはもうすでに何らかの形でキリストと出会っています。そのわたしたちを通して、さらに多くの人がキリストと出会ってゆく。また誰かを通して、わたしたちもまたさらに新たなキリストとの出会いに導かれる。よく洗礼を望んでいる人に「どうして洗礼を受けようと思ったのですか?」と聞くと、たいていは「教会のある方に出会ったことから」とか「ある方に影響を受けて」などといった答えが返ってくるのですが、その当の本人に聞いてみると、そんなこと気付いていないか忘れている場合が殆どです。やはり、宣教が基本的に神のわざであることのしるしでしょう。
今日の箇所の最後で面白いのは、サマリアの人たちがこの女性に「もうわたしたちはあんたが教えてくれるから信じたんじゃない。自分でこの人に触れたからだ」などと言ってるところです。何もわざわざそんなこと言わなくてもなぁ‥と思ってしまいますが‥。いずれにしても、わたしたちはキリストとの出会いによって「生きた水」が与えられ、それはわたしたちの中で泉となって他の誰かに流れていく。神が[わたし]を通して働かれている、わたしたちはそうした「神の宣教の道具」であるということです。そのことにいつも心を向け、神の道具としてふさわしい働きができますよう、共に祈りたいと思います。
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