主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

受難の主日A年(4/17)
マタイ27:11〜54


今年もキリストの十字架を見つめる時を迎えました。

キリストの十字架、まずはそれが歴史的事実であること、つまり実際に起きたことであるというのがある意味で大きなポイントでしょう。イエスの周りにいた人々にとってそれがどれほど衝撃的であったか、それはたびたび予告されていたにもかかわらず、弟子たちがみんな逃げ散ったことからもよくわかります。

そんな弟子たちがその十字架の意味に本当に向き合ったのは、「復活」という体験を経てからであったわけですが、彼らがヒントにしたのが旧約のイザヤ書にある「主の僕の歌」であり詩編22でした。つまり、イエスはわたしたちの罪のため、救いのために自ら十字架を担ったのだ、と。だからこそ、わたしたちは十字架そのものに救いの原点を置くわけです。最近建てられる聖堂の正面には、十字架のキリスト像ではなく復活のキリスト像が置かれるところが多くなりました。やはりあまり「苦しみ」を見たくない‥ということでしょうか、その気持ちもよくわかりますが、わたしたちにとって「十字架」そのものの重要性も、忘れてはならない大切なものでしょう。

わたしはいつもこんな風に位置付けています。聖書では「人はなぜこの世で苦しむのか」という命題のようなものがあって、旧約ではそれに対して「神は御自分の造られたいのちのいたみ・苦しみに決して無関心ではいられない」という答えを出します。でも言わばそこまでで、それが旧約の限界と言ってもいいかもしれません。新約ではそこから一歩進んで、「神は無関心でいられないどころではなく、神御自身がいのちの苦しみを共に担っておられる」とするのです。キリストの十字架はそのしるしと言えるでしょう。だからこそ、わたしたちはどんな時にあっても希望を失うことがありません。神御自身が苦しみを共になさって下さっているからこそ、どんな苦しみの中にあっても、神のわざが確かに働いているからです。

その神のみ旨、思いに目を向けながら、今日から始まる聖週間を共に過ごして参りたいと思います。


マタイによる福音 マタイ27・11-54

さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるいえすか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。

一方、ピラトが裁判の席についている時に、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群集を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群集はますます激しく、「十字架にとけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群集の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、われわれと子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架に付けるために引き渡した。

それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ているものを剥ぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせてもとの服を着せ、十字架につけるために引いて行った。

兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きをかかげた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 同じように、祭司長たちも立法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時頃、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリアを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリアが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。


「ゆりがおか」トップページへ戻る