何週か続けてマタイ13章が読まれていますが、ここは「天の国」のたとえが集められ、編集されているところです。『聖書と典礼』の注書きにもあるように、ここでいう「天の国」とは、いわゆる死んだあとに行く〈天国〉ではなく、他の福音書では「神の国」といわれる言葉で、マタイは「神」と言うのがおこがましいので「天の」と遠まわしな言い方をしているもの‥とされます。「神の国」、直訳だと“神の支配”‥まぁ要するに、神さまのはたらき、わざと言い換えた方がわかりやすいと思います。
今日の箇所では、そのたとえとして『畑に隠された宝のたとえ』と『真珠を見つける商人のたとえ』が出てきます。かつて日本でもそうだったでしょうが、古代の人々にとって大切な物を保管する一番確実な方法は、やはり土に埋めることだったそうです。宝物を壺などに入れて土に埋めて、時間が経つうちに忘れられたり戦争が起こったり、あるいはその家が途絶えたりした結果、後にそこが農地として使われて、畑として耕していたら発見された‥なんてことは、実は当時、そう珍しいことではなかったんだそうです。もちろん頻繁に起きたことでもなかったんでしょうけど。
このたとえで畑で宝を発見する人は、後にその畑を買うことから、自分の畑を持たない貧しい小作農であることがわかります。少々引っかかるのは、宝を発見したらそれだけ持っていけばいいのに、「そのまま隠しておき」、その畑ごと買うところです。「畑」と「宝」は切っても切れない関係にある‥というのですが、ちょっとよくわかりませんね。ただいずれにしても、結果としてその人は自分の土地を持つ自立した人となります。「持ち物をすっかり売り払って」とは、“生き方そのものが変わってしまうこと”を意味しています。一方『真珠のたとえ』ですが、古代では真珠は偶然できる物であるため、あらゆる宝石と比べても最も高価な物だったようです。エジプトでは真珠を崇める宗教まであったそうで‥。まぁそんな高価な真珠を扱う商人ですから、こっちは大金持ちであると思われます。そしてこの人は最初から真珠を「探して」いる。でももちろん、真珠を見つけるのは、畑で宝を見つけるのと同じく偶然、つまり受身的であるわけです。そしてこの人も「持ち物をすっかり売り払って」それを手に入れる。
この二つのたとえは、もともと別個の伝承だったとされていますが、マタイがここで対のものとして編集したのには意味があります。ようするに神のはたらき、わざというのは、貧乏であろうと金持ちであろうと、求めていようといまいと、すべての人に臨んでいるものなのだ、と。そしてそれに気付く人にとってそれは、生き方そのものを変えてしまうようなものとなる。
自分自身の今までの歩みと照らし合わせて考えた時、わたしにとってそれは“神さまを主語にすること”かな、と思いました。わたしたちの人生において、ある意味で主語は常に「わたし」です。この「わたし」が求めている、選んでいく、がんばって生きていく‥でもそれを「神さまが」にすると、生きることの見方が根本から変わります。「自分」ではなく、「神さまが」求めておられること、望んでおられること、「神さまが」なさること。わたしたちの日常において、また人生において常に神さまが働かれていることに気付く時、その神のはたらき、わざ中心となり、それを受け入れ、積極的に求めることが、言わば「信仰に生きる」ということなのでしょう。でも神のはたらきを中心とすると、それは時には自分にとって都合の悪いこと、つらいことにもなり得ます。そんな時わたしたちは神さまに文句を言ったりしちゃうわけですが、でもそのわざをなさる「神」というお方がどれほどわたしたちを愛して下さっているかに目を向けることで、わたしたちはどんなときにも希望を失うことはないのです。そしてそれこそが、「信仰者」のつよみと言えるでしょう。ただわたしたちは自己意識を持って生きているので、しばしば主語が「わたしが」になってしまうのも事実です。まぁだからこそ、日々「神さま」へと心を向け直す必要があるのでしょう。
“神のはたらき、神のわざ”‥そんな「宝」が日々わたしたちに望んでいる事にいつも気付き、また分かち合うことができますよう、御一緒に祈りたいと思います。
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