主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

年間第26主日(9/25)
マタイ21:28-32


 

 今日の箇所を読むと「不言実行」とか「有言実行」といった言葉が浮かぶかもしれません。

わたしはウソが大嫌いで、まぁ好きな人もいないでしょうけど、若い頃人にウソをつかれて傷ついたことが何度もあって、以来自分ではどんな小さなことでも絶対にウソはつかないと心に決めています。なので、自分がいったん口にしたことは死んでも実行するぞ!といつも思っているのですが、時々どうしてもできなくなって「ごめんなさい」と言ってしまう事もあったりします。‥と、そこからするとこの箇所に出てくる二人ともウソつきですよね。

 今日の箇所でのポイントは「後で考え直して」という言葉が二回出てくることです。これは「メタメロマイ」というギリシャ語で、『聖書と典礼』の注書きにもあるように「回心(メタノイア)」につながる言葉だそうです。前にも話しましたが、「メタノイア(回心)」とは「メタ」が超越、「ノイア」が自分の立つ位置という意味だそうで、そこから“視点を変える”こと、説明されます。しかも神の視点に立つことである、と。そして神の視点とは“いのちのいたみ苦しみを感じられる”もの、つまりは「人のいたみ苦しみを感じられるところまで自分の立つ位置を変える」ことが「メタノイア」であると言われます。その意味から「共感」と訳す聖書学者もいるほどですが、よく出てくるほかの訳語は「悔い改め」です。が、これは誤訳としか思えません。日本語で「悔い改める」とは、ああ自分はなんていけない人間なんだ、もっと立派な人間にならなければ‥と、つまりは意識が自分に向いている状態のことなわけで、“人のいたみ苦しみが感じられる”ためには、意識は自分の外側に向いていなければならないからです。

旧約の創世記で「神は御自分の似姿として人をつくられた」というところが、わたしは長らく嫌いでした。どうも聖書は人間という生き物だけ特別扱いするところがあって、それが東洋人としての自分の感覚に合わないように感じててしまったからです。でもその後聖書を勉強するうちに、旧約の神の位置付けの中に“神は御自分のつくられた一つひとつのいのちのいたみ苦しみに決して無関心ではいられない方”というのがあって、なるほどこのことか‥と納得しました。新約ではさらに“神は真っ先にいたんでいる人、苦しんでいる人に目を向けられる”と提示されます。ようはわたしたち人間にもその神と同じ心が与えられている、だからこそその心をいつも思い起こし、神の視点に立つことが求められているわけです。

「ぶどう園」というたとえが少々わかりにくくしてしまっていますが、自分ではなく神に、そして人に心を向けることが神の望み‥というのがこの箇所のメッセージなのだと思います。さらに、目の前で神のわざがおこなわれていることにも気付きなさい、と。今日の箇所の位置付けを見ると、結構とんでもない場面にされていることがわかります。エルサレムに入場したイエスは、真っ先に『宮清め』つまり神殿で大暴れして商人を追い出し、めちゃめちゃにするわけですが、そんなイエスに祭司長や長老たちは「お前は何の権威があってそのようなことをするのか」と詰め寄ります。するとイエスは「言っとくけどあんたらより徴税人や娼婦の方が先に神の国に入るよ」と言ってるわけで、祭司長や長老たちは頭から湯気が出るほど怒ったことでしょう。なぜならば、とイエスは言います。あなたたちが罪人というレッテルを貼って差別している彼らが目の前で救われているのに、その神のわざを見ようとしない、受け入れようとしないのだから、と。

 わたしたちに与えられている〔神と同じ心〕をいつも思い起こし、その心を神と人とに向け直して、わたしたちのうちに行われている神のわざにいつも気付くことができるよう、御一緒に祈りたいと思います。



マタイによる福音 

そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日(きょう)、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦(しょうふ)たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21・ 28-32)


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