主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

年間第4主日B年説教(1/29)
マルコ1・21〜28

 年間の主日に入り、マルコ福音書でイエスが宣教活動を開始されたところが続けて読まれています。

今日のようにイエスが悪霊(汚れた霊)を追い出すシーンというのは福音書に時々出てきますが、ちょっと戸惑いを覚えてしまう箇所かもしれません。ヨーロッパには今でもいわゆる「悪魔祓い」の資格を持った神父さんとかがおられるそうですが、そのことと聖書のこうした箇所がどうつながるのか‥正直言ってわたし自身もよくわかりません。ただ聖書の言葉の概念として捉えてみると、「悪」とは“神に反する要素”のことなので、そこからすれば「悪霊」とは“神に反する要素の働きかけの力”、あるいは“神から人を離そうとする働きかけの力”と言うことになるでしょう(逆に「聖霊」は“神からの働きかけの力”なので)。まぁ福音書ではそれが人格的に描かれているわけです。

イエスが悪霊を追い出すシーンには、共通した要素があります。まず、必ず悪霊の方から反応するところ。イエスが「あ、お前悪霊だろ」とか言うのではなく、まず悪霊の方から、「ナザレのイエス!」とわざわざイエスを紹介してくれて、しかも「正体は‥神の聖者だ」とかイエスの本質まで言ってくれちゃう。まぁこれは古代における悪霊追放物語の典型的なパターンでもあるそうですが、ようするに“神に反する要素”はイエスに敏感に反応する、ということです。つまりは福音が示される時、それに逆行する要素が浮き彫りにされる。それはある意味で、この世的な価値観が福音的それとある面で決定的に違う、ということかもしれません。普段わたしたちはそれこそこの世の価値観にどっぷりつかって生きているので、それについてあまり疑問に思いませんが、“神の目から見たら”と考えると、福音的でないことが少なくないわけです。世の中を見回すと、それはたとえば戦争など大きなことも沢山あると思いますが、実はわたしたちの身の回りにもよくあることのように感じます。

わたしは色々なカトリック学校とかかわっていますが、信者の先生方は一様にあるジレンマを抱えているように見えます。私立の学校にあっては、学校経営のためやはりある程度志望率を上げていく必要があり、そのためには学校の偏差値もなるべく高くし、そして生徒たちもなるべく偏差値の高い大学へと進ませたい。どうしてもそんなことが優先されてしまう中で、カトリック学校としてもっと生徒たちに伝えていく大切なことが沢山あるのではないか‥そんな話をよく聞きます。まぁ確かにそうですが、わたしは小・中・高とずっと公立の学校だったので、むしろカトリック学校の存在自体が大きなしるしになっているように思えてしまいます。別に公立の悪口を言うつもりはありませんが、公立の学校ならばよりよい成績をおさめ、よりよい大学に進むというのは当たり前の優先事項ですから。でもそうではない、と気づきました。福音的価値観が示されているカトリック学校だからこそ、世間の常識とは違う「福音」がはっきりと意識されるのだと。

以前いた地区では司祭の数が足りなくて、しかも残念なことに小さい教会から必ず司祭不在の教会になっていきました。仕方がないとは言いたくありませんが、やはり司教さんは信徒に対する責任があるので、どうしても信徒数の多い教会に司祭を派遣せざるを得ません。でもよく考えてみれば、小さい教会ほど大きな負担を強いられるというのは、実に福音的でないですよね。

わたしたちは皆、ある意味でそうした“この世の価値観と福音的価値観との狭間”におかれて悩みながら生きているものかもしれません。しかしそんなわたしたちにとって、今日の箇所はまさに希望となるのではないでしょうか。イエスは「悪霊を追い出し」ます。つまり、イエスというお方が“神に反する要素を追い払って下さる”、神の目から見て福音的でない要素を取り除いて下さるのです。これもわたしたちが自力でできることなのではなく、キリストを通してなされる神のはたらき、神のわざであるのでしょう。

そんなイエスに信頼し、神のわざにすべてを委ねつつ、いつもわたしたちのうちに示されている「福音の価値観」に目を向け続けたいと思います。


マルコによる福音 

イエスは、安息日(あんそくび)にカファルナウムの会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚(けが)れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱(しか)りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(マルコ1・21-28)



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