『盲人バルティマイの癒し』というこのエピソードは、イエスのエルサレム入城の直前に置かれていますが、通常のいわゆる病気治癒の奇跡物語とは少々違う部分が目立ちます。まず、イエスに呼ばれたバルティマイの喜びよう。「盲人は上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た」‥マルコにしてはとても生き生きとした描き方です。しかも、盲人が見えるようになってからの喜びは一切書かれていない。他方で、イエスの言葉「あなたの信仰があなたを救った」‥イエスが病人を癒した後でよく言われる“決め台詞”のようなものですが、ここでは癒しの前に言われています。つまり、「見えるようになった」事よりも、イエスに「呼ばれた」事でもうバルティマイは救われている‥と言ってもいいでしょう。
すなわち、これは奇跡物語というより“召命物語”であるのです。イエスの「呼びかけ」に出会った人が、「見えるように」なり、イエスに従う者となる。この「見えるようになる」事を、肉眼というよりもっと象徴的な事としてとらえると、なるほど自分もそうだったということに気付かされました。わたしが司祭になろうと思った時のことは何度となく話してきましたが、自分が神に「呼ばれている」ことに気付いた時、それまで見えていなかった事が次々と見えてきました。それは言わば、「神のわざ」。「自分が選んだ」「自分が判断した」「自分が求めた」と、「自分が」という視点でいた時は見えていませんでした。でも「じゃあ神さまは何を求めておられるんだろう」と考えた時、実はすべては神さまが用意して下さったという事に気付いたんです。
「召命」「召し出し」とは、すべての人に与えられているものだと思います。すべての人は、その人が神を信じているか否かに関係なく、神さまから「あなたじゃなきゃダメ」という形で呼ばれてる。それに“気付く”時がそれぞれあるんだと思います。また、呼ばれ方も人によってそれぞれでしょう。今日のバルティマイのように、叫び続けてイエスの呼びかけに出会う人もいれば、イエスの弟子たちのようにまったく一方的に呼ばれる場合もある。そして、神さまからの呼びかけは一回限りでなく、わたしたちは死ぬまで「呼ばれ」続けます。いや、ある意味で「死」もまた「呼ばれる」ことでしょうね。
自分自身の歩みを振り返ってみると、神さまからの呼びかけが複数絡み合っていた事にも気付かされます。わたしは司祭になってからカトリック学校に長年かかわっていますが、小中高とずっと公立で育った自分がこんなに長くカトリック校とかかわるとは思っても見ませんでした。大学の時教職課程を取っていましたが、別に教師になりたいと思ったからではなく、教職でも取っとくか‥という程度のものでした。大学四年で教育実習に行った時、なぜかはわかりませんが「あ、これは違う」とはっきり感じました。これは俺が進む道じゃない、と。それ以来自分には教師の召命はないとずっと信じていましたが、案の定、司祭になって三年目にカトリック学校で宗教科を担当してほしいという話が来ました。それ来たぞ‥とばかりに「これこれこういうわけでわたしには教師の召命はありませんので、お断り致します」と言うと、その話を持って来られた信者の先生は、わたしにこう言いました。「いや、わたしたちは『教師』が欲しいわけじゃない。『司祭』が欲しいんだ。」‥そう来たか‥としばし困りました。「司祭」としてカトリック学校で働け、と。だいたい十代の時不良だったわたしにとって、学校も教師も言わば「敵」なわけで(深い意味があるわけでなく、そんなイメージだったということです)、そんな自分が教壇に立つなんて考えてもいませんでした。
「そんなわたし」を神さまが学校という場に呼ばれた。いや、「そんなわたし」だからこそ、呼ばれたのかもしれません。今では「そんなわたし」だからこそ、カトリック学校の意義や大切さを実感しています。自分もこんな教育を受けていたら、もっとまともな人間になっていただろうになぁ‥みたいな。いずれにしても、神さまの「呼びかけ」は時としてわたしたちの想像や予測をはるかに超えています。意外なところで、意外な時、意外なところに神さまはわたしたちを呼ばれる。そんな神さまからの「呼びかけ」に日々気付くことができるよう、またそんな神さまからの「呼びかけ」を互いに見つめ合うことができますよう、心を合わせて祈りたいと思います。
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