主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

待降節第3主日C年(12/16)
ルカ3・10-18


 

 毎年、待降節の第2第3主日には、洗礼者ヨハネの箇所が読まれることになっています。洗礼者ヨハネというと、人々に厳しく回心を迫る、というイメージがあるのですが、今日のルカの箇所では、割と当たり前のことが言われているようで少々拍子抜けする感じです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と説くヨハネに人々は「じゃあ、具体的に何をしたらいいんですか?」と聞くと、まずは自分の持っている物を持っていない人と分かち合え、と言われます。そして、規定以上の税をしばしば取って私腹を肥やしていた徴税人には「規定以上は取るな」と、そして当時給料が低かったゆえに往々にして恐喝などにはしった兵士たちには、それをするな、と。一見当たり前のように見えるヨハネの言葉に、実は大きなポイントが示されています。それは、「自分」のことを考えるのではなく、「他人」へと心を向けよ、ということです。そしてこれこそが「回心」と言えるでしょう。何度か話してきましたが、「回心」と訳されているもとのギリシャ語は「メタノイア」、「メタ」は超越する、「ノイア」は自分の立つ位置。そこから<視点を変える>こと、とよく言われます。どの視点に立つのか。それは「神の視点」、つまりいのちのいたみ苦しみを共感できる視点、に他なりません。この「メタノイア」は「悔い改め」とも訳されますが、これはわたしは誤訳としか思えません。「悔い改める」では、自分がどんなに悪い人間だったかを「悔い」、立派な人間になろうと「改める」‥これではどちらにしても「自分」にしか意識が向かっていない。「メタノイア」とは自分の外側に、「神」と「人」とに意識を向けることなのです。「神に心を向ける」とは、その神がこよなく愛しておられる一つひとつの「いのち」に心を向けることにつながるわけです。

今年も待降節を過ごす中で、様々なボランティアなどが行われています。まぁこの時期だけやればいいというものでもないでしょうが、救い主がこの世に来られたこと、神がイエスを世に送って下さったことを喜び祝うこの季節、神がどのようなお方か、神が最も小さい者、最も弱い存在にいつも目を向けて下さっていることを、改めて思い起こす時でもあるでしょう。その意味では、待降節にあってわたしたちが、今誰が助けを必要としているのか、改めて目を向ける必要があるのだと思います。

クリスマスが近づく中で、その大きな喜び、そして深い喜びを、一人でも多くの方に届けることができますよう、共に祈りたいと思います。


ルカによる福音 (ルカ3・10-18)

 そのとき、群衆はヨハネに、「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場(だっこくば)を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻(から)を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。


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