「子よ、あなたの罪は赦される」
今日の箇所は〈いやし〉と<ゆるし>がテーマになっています。病気を治す人にイエスは上記のように言います。「わたしが赦す」と言ったわけでなく、言わば神のゆるしを宣言されたのですが、それを律法学者たちは誤解して、そこからイエスとの論争に発展します。実はこの行き違いの中に、ポイントがあると言えるかも知れません。
イエスの時代、病気や障害は罪の結果であるという因果応報的な考えが根強くありました。例えばヨハネ福音書の9章に『生まれつきの盲人をいやす』という記事があります。生まれつき目の見えない人を見て、弟子たちがイエスに「先生、この人が目が見えないのは本人が罪を犯したからですか?それとも両親の罪ゆえ?」と聞きますが、イエスはこれに対して「いや、全然違う。この人が目が見えないのは、神のわざが現れるためだ」とこたえられます。つまり因果応報的思想をイエスは否定することが多いのですが、今日の箇所ではそうでもない感じです。なぜでしょうか。
考えてみれば、「病み」(正常じゃない状態、どこかいたんでいる)と「罪」(神から離れてしまっている状態)とはどこか共通点が、つながるところがあるのかも知れません。「罪」の結果「病んで」しまうこともあるでしょうし、逆に「病んで」いるから「罪」の状態に陥ることもあるでしょう。だからこそ、神に立ち帰る「ゆるし」が与えられた時、あるいは自分が「ゆるされている」子とに気付く時、それは色々な意味で「いやし」につながるとも言えます。
もう一つのポイントは神のゆるしと人のゆるしの違いでしょう。「ゆるす」は「赦」(ゆるめる)と「許」(みとめる)の二つの漢字が使われますが、どちらにしても「罪」がなくなる状態ではありません。例えば「恩赦」とは既に刑に服している人が減刑されることで、罪そのものがなくなるわけではありません。それにたいして聖書で「神がゆるされる」と言う場合に使われている言葉は“持ち上げる”とか“放り出す”という意味だそうで、要するに神のゆるしとは「罪」そのものをなくしてしまうこと、言い換えればそれは神の人間に対する大きな愛の表現に他ならないのです。だからこそ、それを感じた人にとってそれは「いやし」にもなるわけです。
人間にとって人を「ゆるす」事はそう簡単ではありません。いったんゆるしたと思っていても、その人からされたことを思い出すと再び新たに怒りがわいてきてしまったりする。極言するならば、人間は自力では完全な「ゆるし」を実現しえない、と言えるかも知れません。そしてだからこそ、それを実現されるのは【神さま】だけなのです。
わたしは若い頃から長年、どうしてもゆるせない人がいました。ゆるす気もありませんでした。神学生になって、神さまに「神さま、どうしてもあの野郎だけは許せません。ごめんなさい。アーメン」などととんでもない祈りをしていました。そしてわたしが神学生の間にその人は亡くなったのですが、それでもゆるせませんでした。その人の墓前で「あんた死んだからって安心すんなよ。俺はゆるしてねぇぞ。神さまはゆるすだろうけど俺は絶対ゆるさねぇからな」などと言ってました。それほど憎んでいたんでしょう。ところが、司祭になって数年経った頃、たまたまその人のことを思い出した時に、まぁ考えてみればあいつもかわいそうな人だったのかな・・などと哀れみの情が沸いてきたのです。おいおい、俺は憎んでんだ、哀れんでどうする、と思ったのですが、もうすでに憎しみはありませんでした。事もあろうにゆるす気もなかったわたしの中で、神さまは「ゆるし」を実現なさったんです! それに気付いた時思いました。そうか、「ゆるし」についてもわたしたちは神から“与えられる側”なのだ、と。
すべては【神の愛】ゆえの、そこからのことです。それに気付く時、なかなか人を「ゆるせない」わたしたちも、それを実現させて下さいと祈れる、それを求められるのでしょうし、それによって自分が「いやされる」事にも気づくことができるのでしょう。
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