「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
キリストの受難を表現した言葉、と言ってもいいでしょう。有名な箇所ですし、言葉としてきれいなところなので、わたしたちはここをよく使うし、聖歌になっていたりもします。ただよく考えると要するに「死ね」と言われてるのかな‥とちょっと複雑な気持ちにもなるところでもあります。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
福音書の他の箇所にも出てくる、格言のような“福音の逆説”などとも言われる言葉です。ギリシャ語では“より少なく愛する”という表現がないので「憎む」という言葉が使われていますが、なんとなくここでも「自己犠牲をしろ」と言われているような気分になってしまいます。
しかし、これらの言葉はまず『福音の価値観』から見てみる必要があるでしょう。つまりは、「自分」ではなく「人」へと目を向ける、ということです。わたしたちはとかく「自分が」そして「自分の」となりがちです。でもそれらを誰かのために差し出す時、神のはたらきが見えてくる。いつも言うことですが、わたしたちが誰かのために何かを差し出す時、必ず何かが起きる。それこそが神のわざであるし、そこに神のはたらきがあらわれます。問題は、わたしたちが何かを「差し出す」か否かです。ヨハネのほかの箇所にあるように、一人の少年が五つのパンと二匹の魚を「差し出した」ことで、イエスは5000人の人を満腹させられました。また、誰かが何かを差し出す時、その行動は神によってどんどん広がっていきます。誰かから何かをもらった時、何かお返ししなきゃ‥と思います。また誰かに何かを祝って頂いた時(わたしも先週叙階20周年を祝って頂きましたが)、今度は自分も誰かの何かを祝ってあげよう、と思うものです。世間的に見たらそれは単なる礼儀だとか倫理、道徳の問題になるでしょうけど、わたしたち信仰者にとってはそれこそが神のはたらきです。誰かのために何かをしようとする時、神が必ずそれを広げ、つなげ、そして膨らませて下さる。「命を差し出せ」と言われたら困りますが、どんな小さなものでも、ほんのちょっとでも、それを神さまが大きくして下さることに気づく時、わたしたちは自分の何かを「差し出せる」のではないでしょうか。
震災から一年、この時にやはりわたしたちは被災地に目を向け、自分たちのできることを、それがどんなに小さなことでも、神さまのはたらきを信じて、何かをしたいと思います。
そして共同回心式にあたり、やはりわたしたちは昨年の震災によって向かい合わなくてはならなくなった、諸々の事に目を向けざるを得ないでしょう。日本に生きるわたしたちが、どんな点で神から離れていたのか、どんな部分が神を悲しませていたのか。そして加えて、わたしたち百合ヶ丘の教会共同体としてどのようなところで神に立ち帰る必要があるのか、しばし糾明の時を持ち、神のゆるしを共に求めたいと思います。
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