「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」‥この箇所を読むたびに、あることを思い出します。それは<雨の夜の高速道路>。車を運転なさらない方には、わかりにくい話かもしれません。
わたしが司祭になってはじめに赴任したのは、長野県の松本の教会でした。毎月司祭の集まりや会議などが横浜であったので、月に1〜2回は車で松本と横浜や鎌倉の実家を車で往復していたのですが、そんな頃、何度か夜に土砂降りの雨の中、中央高速を走る羽目になったことがありました。雨の夜の高速道路は本当におっかないです。経験のある方もいらっしゃるかと思いますが、前がよく見えないし、車線もはっきり見えない。街中だと照明がありますが、地方の、しかもインターから離れると照明などまったくなく真っ暗です。そんな中でハンドルを握り締めながら必死になって運転するわけですが、唯一の救いになるのは、実は前を走る車のテールランプの赤いライトなんです。前に車がいるのといないのとでは、安心感がまったく違う。目印になってくれてるわけですね。でもよく考えると、前を走っている人は、まさか自分の車のテールランプが後ろの人の救いになってるなんて、考えもしないでしょう。自分は自分で必死にハンドル握ってるわけですから。でも意識しない中で、自分の存在が他人にとってなくてはならないものになっている。このことを思い出したとき、あ、「宣教」ってまさにこれだな‥と思いました。
「あなたがたはこれらのことの証人になる」‥「証人になれ」とか「証人であれ」とかとは言われてないんです。つまり、キリストに触れた人の存在そのものが<あかし>であるのだ、と。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」‥両方とも受動形です。すなわち、行為の主体はあくまで神さまだということ。宣教とは神さまがなさるわざで、わたしたちはその道具です。わたしたちを通して、神さまが働いておられるのです。そして、わたしたちはみんな何らかの形でキリストに触れています。場合によっては無意識のうちに。そんなわたしたちを使って、神御自身がわざを行われている。それこそが「福音宣教」と言っていいでしょう。
新たに洗礼を受けられた人に「なぜ洗礼を受けたのですか?」「どうして教会に来ようと思ったのですか?」と聞くと、たいていは「○○さんに誘われました」とか「○○さんの影響で」とかいうこたえがかえってきます。つまり誰かが仲介になっている場合が多いわけですが、当の○○さんに聞くと、覚えていなかったり、またはっきりと意識していなかったりする場合も少なくありません。神は人を通して働かれる。わたしたちはその神の働きが、自分という人間を通してなされたことに、後から気づくことが実は少なくないのではないでしょうか。
でもそれこそが「キリストの復活」だと感じます。キリストを通して、神がこの「わたし」のうちに、そしてこの「わたし」を使ってわざを行われている。しかもこの「わたし」でなければだめ、という形で。それこそが、キリストが時と場所を超えてわたしたちと共にいて下さるという「復活」のしるしに他ならないでしょう。
キリストの復活を祝う季節にあって、この復活祭に洗礼を受けられた方々のために祈り、そしてキリストに触れたわたしたちの存在自体が「あかし」になっていることを、受洗された方々と共に、深く味わいたいと思います。
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