主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

年間第25主日B年説教(9/23)
マルコ9・30〜37

 「弟子たちは途中で誰がいちばん偉いかと議論し合っていた」‥イエスが受難予告をしている大変な時に、何でそんな子供じみたことを‥と思ってしまいます。マルコ福音書は、「弟子の無理解」という点をテーマのひとつとしてやたらと強調するきらいがあるのですが、それにしても状況的に不自然な気がします。ただ考えてみると、受難予告が何のことかわからないなりに、弟子たちは不安に陥り、だからこその議論だったのかもしれません。「俺はこんなに先生に尽くしてきた‥」といったような。

そんな弟子たちにイエスは言われます。「すべての人に仕える者になりなさい」‥この「仕える者(ディアコノス)」という言葉は、元々は食卓で給仕する人を指す言葉で、のちに「僕」や「奴隷」の意味でも使われ、初代教会では「奉仕者」を意味する言葉となり、さらに三つの職制の一つである「助祭」を指す言葉として使われるようになりました。

何かの折に、「仕える」とはどういうことなのかと考えさせられます。あるいは、「仕える」という日本語が多少じゃましている場合もあるのかもしれない、とも思います。目上の人に「仕える」と言えばわかりやすいですが、「最も小さい者に仕えろ」と言われても、どこかしっくりこない感じがしてしまう。わたしは長年、関内駅周辺の路上生活者支援の活動にかかわってますが、野宿者に「仕えている」とはとても言えない、全然そこまでいってないなぁ‥と思ってしまいます。ただ今日の箇所に「子供」という存在が出てくるので、そこから多少ヒントをもらった気がしました。

今年の4月に、知り合いの若い夫婦に子供が生まれました。何度か伺って抱かせてもらったりしたのですが、生まれたての赤ん坊は無条件にかわいいですよね。意味もなく笑う笑顔に、わたしたち大人は本当に癒されます。まぁ自分の子供ではないから余計そう感じるのかもしれませんが、でも幼い赤ちゃんの笑顔には、本当に無条件に癒されるものです。親がいなければ一日だって生きてはゆけない赤ん坊に、わたしたち大人が癒されている‥これこそ、福音のパラドックスだと思います。小さく弱い存在を通して、神はいつもはたらかれている。つまり、誰かのために何かをやってると思っている側が、実は多くのものをもらってる‥そんなことって、少なくないのでは。そしてそこに「仕える」ということのヒントがあるように思うのです。

とは言え、そうも言ってられないこともあるでしょう。先日たまたま、福島の被災者を支援している方からの手紙を拝見したのですが、福島の状況は本当に大変なのだそうです。未だに生活物資も全然充分ではないし、また原発のこともあって被災者の方々は様々な面で精神的にも追い詰められている。愕然としました。何かこちらでも出来る事があればと思います。まずは、「助けを求めて叫んでいる人」に目を向ける、それもまた「仕える」ことへの第一歩なのだと思います。

“小さくされている人”へといつも意識を向けることができるよう、御一緒に祈りたいと思います。


マルコによる福音 9・30〜37 

そのとき、イエスと弟子たちはガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後(のち)に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後(あと)になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


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