主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第30主日(10/27)C年《ルカ18:9〜14

 

 最近今更のようにふと思うことですが、聖書の中でイエスさんが語るたとえというのはなんともいやみというか‥皮肉が利いてますよね。例えば有名な「善いサマリア人」のたとえでは、強盗に襲われた人が倒れているところで、わざわざ祭司とレビ人に素通りさせる。ユダヤ教の祭儀を執り行い、様々な面で権威を持つ祭司と、それを補助するレビ人にです。そしてこともあろうに、ユダヤ人と敵対していたサマリア人に助けさせる。聞いていた人は「まったくなんちゅうたとえだ‥」と思ったことでしょう。今日の箇所のたとえもそうですね。ファリサイ派の人というと福音書の中ではイエスの論敵としてよく出てくる存在ですが、当時まわりからは尊敬されていた人たちですし、サンヘドリンという当時の議会の中ではサドカイ派と議席を二分するほどの、多数派のグループでした。かたや徴税人というのは言ってみればヤクザもんで、社会の害虫みたいな人たちです。でもイエスは徴税人や当時罪人というレッテルを貼られた人たちとばかり一緒にいて、ファリサイ派や律法学者たちからそれについて文句が出た、というのも福音書にあるひとつの構図です。

このファリサイ派の人の祈り、さすがにこんな祈りはしないだろうと思ってしまいます。神さまの前で自分を誇ったって仕方がないですから。ただ考えてみると、時々言いたくなることではあるのかなとも思います。つまり、「わたしこんなに一生懸命やってますよ」と。わたしも若い頃は祈りの中でしょっちゅう神さまに文句を言ってました。「神さま、勘弁して下さいよ。そんなにできませんって。これ以上働けませんよ。」とか。でもある時気付いたんですね。そんなこと、神さまが知らないはずがない、と。「わたし」以上に自分のことを知っていて下さる方に、もっと信頼する必要があるな、と。つまり、問題は《どう神さまに向かうか》なんだと思います。「義とされて」とありますが、これは神さまに正しく向かうということです。前にもお話しましたが、聖書で「へりくだる」とか「謙虚」と訳されている言葉は、日本語のイメージとは少々違います。もとは人が身を屈めて頭を下げているさまをあらわす言葉で、つまり神の前に置かれた人間が自然をこうべをたれる、そんな意味合いだそうです。そしてそこから「小さい」とか「貧しい」といった言葉も派生しているそうで、ようは神の前に置かれた人間のとるべき態度が「へりくだり」であるわけです。日本語で「へりくだり」というと、他の人間と自分を見比べて「いやいや自分はそんなに‥」などと心で本当に思っているかはどうかは別として自分を低く見せる美徳のようなイメージがありますが、聖書の場合は対神さまなわけで、神さまを前にしたら頭を下げるしかない‥と、つまりは大元が違うんですね。聖書ではこのようにいつも「神さま」がものさしとなります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」‥この「憐れむ」と訳された言葉も、《はらわたがよじれるような思い》という意味で、福音書では原則として神かイエスが主語の時にしか使われない言葉、神が御自分のつくられたいのちに対してもっておられる思いを表現するものです。ミサの「あわれみの賛歌」もそうですが、そんな神さまの思いにすがろうとするのがわたしたちにとっての「祈り」と言えるでしょう。

確かにわたしたちは時々神さまに文句を言いたくなる。泣きつきたくなるし、こんなにがんばってますよとも言いたくなりますが、そんな時はそのすべてを神さまが知っていて下さることを思い出し、むしろ神とはどのような方であるのか、どのような思いを持って下さっているのか、そして何を求めておられるのかに心を向けて、祈ることができたらと思います。

ルカによる福音

 (そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ 18:9-14)


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