「王であるキリスト」‥キリストに「王」というタイトルが付くことに、どうもいつまでたってもやはり違和感を感じてしまいます。旧約を読んでいると、特に詩編などに「神こそが王」という表現がよく出てきます。わたしたちにとって「王」という存在があるとすればそれは神しかいない‥という言わば旧約の信仰であると言えますが、だからでしょう、出エジプト後にカナンの地に定着していったイスラエルの民は、なかなか王制を取り入れようとしませんでした。しかし戦争のために司令官としての「王」の存在がどうしても必要となり、苦慮したあげくに『王に関する規定(申命記17:14〜』がつくられました。それはそれは厳しい規定で、王は必ず神によって選ばれ、誰よりも神に忠実で、そして誰よりも律法を忠実に守らなければならない‥など。つまり人間の王を立てるのであれば、そのくらい神という存在を体現する人でなければならない‥というわけです。そして、神の選びのしるしとして、第一朗読にあるように、王になる人は頭から油を注がれました。「メシア〜?』がつくられました。それはそれは厳しい規定で、王は必ず神によって選ばれ、誰よりも神に忠実で、そして誰よりも律法を忠実に守らなければならない‥など。つまり人間の王を立てるのであれば、そのくらい神という存在を体現する人でなければならない‥というわけです。そして、神の選びのしるしとして、第一朗読にあるように、王になる人は頭から油を注がれました。「メシア(ギリシャ語でキリスト)」とは、注書きにあるように、“油注がれた者”という意味で、元々は神から特別の使命を与えられた人全般に使われていましたが、イスラエルが王制を導入してからは専ら「王」をあらわす言葉となりました。「王」よりも「メシア」という言葉にこだわったのは、やはり“神の選び”を強調するためでした。しかし残念ながら、歴代の王たちは誰もこの規定を守ることができませんでした。その結果王国は滅亡してしまうわけですが、人々はいつか神が本当の「メシア」を世に遣わして下さる‥と期待を持ち続けました。それで次第に「メシア」は“救い主”の意味で使われるようになったのです。
しかしイエスの時代は、人々は「メシア」に実に現世的なイメージしか持っていませんでした。すなわち、ローマの支配を覆して下さる方、という。だから十字架にかけられたイエスを、今日の箇所のようにののしるわけです。「お前みたいなやつがメシアであるわけがないだろう」と。
イエスが十字架にかけられた時、一緒に二人の人が十字架にかけられたと四つの福音書すべてに書いてありますが、その二人とイエスとのやり取りを書くのはルカだけです。そしてここにこそ、イエスがどのようなメシアであるのか、そしてキリストになぜ「王」というタイトルが付けられるのかが示されている、と言えるでしょう。イエスは犯罪者と一緒に十字架にかけられて下さる「メシア」なのです。「イエスよ、わたしを思い出して下さいと言う犯罪人にイエスは「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。イエスというお方は、わたしたちが最低最悪の時にそばにいて下さり、しかも救いを宣言して下さる方なのです。それはすなわち、神がどれほど一人ひとりを、一つひとつのいのちを愛して下さっているかを、つまり神がどのようなお方なのかを示している、体現なさっていることに他ならないのです。
第二朗読ではそのキリストを「頭としている」のが教会であると言われます。わたしたちもまた、そうした神のものさしを生きようとすることで、キリストの教会であり続けることができるのでしょう。
父である神を示されたキリストに、いつも従って歩んでゆくことができますよう、御一緒に祈り求めたいと思います。
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