「主の変容」‥イエスの姿が変わる、という不思議な箇所ですが、毎年四旬節の二番目の日曜日にはここが読まれることになっています。これはもとは復活顕現物語、つまり復活されたイエスに弟子たちが出会うという出来事の伝承だったのではないか、と多くの聖書学者が指摘しています。そう考えるとなんとなくわかる気もしますが、マタイ・マルコ・ルカの三つの共観福音書では、それがなぜかイエスの生前に組み入れられ、それも第一回の受難予告と第二回のそれとの間に置かれて、イエスの復活の栄光が垣間見せられるといった内容に編集されています。旧約を代表するモーセとエリヤが現れる‥とこれも不思議な表記ですが、ルカだけがイエスとこの二人との話の内容を書き、それによってこの出来事の中でのルカの関心事がわかります。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」‥ここで「最期」と訳されている言葉はギリシャ語で「エクソドス」という単語で、元々は“旅立ち・次の段階へと移行すること”という意味だそうです。ちなみに旧約の出エジプト記のギリシャ語のタイトルはこの「エクソドス」です。つまりは“死への旅立ち”という婉曲的表現として新共同訳は「最期」と訳したんだと思われますが、もとはそこで留まらず次の段階、つまりは復活へと移行する過程としてここではこの言葉が使われているわけです。そして注意深く見てみると、この「エクソドス(最期)」が「栄光」という言葉で囲い込まれていることに気付きます。ようは受難と栄光は表裏一体、イエスの十字架上の死を通して、神の栄光があらわされる‥それが強調されています。受難=栄光とは、まさに聖書的パラドックス、福音の逆説だと言えるでしょう。十字架というむごたらしい現実、失敗としか思えないようなことを通して、神の栄光があらわされる‥実はこうしたことはわたしたちにとっても少なくないかもしれません。つまり人の目から見たら、なかったほうがよいと思えること、苦しみやいたみ、あるいは小さい存在や貧しい存在‥の中に、実は神のわざがはたらいている。
そんなことを考えながら、ふと思いました。わたしも50年生きてきた中で、ずいぶん多くの人を傷つけてきたなぁ、と。無論人から傷つけられたこともありますが、それよりはるかに人を傷つけたほうが多いだろうと思います。人間はどうしてもお互いに傷つけ合ってしか生きてゆけないのかもしれません。しかも現金なもので、人間自分がされたことはいつまでも憶えているくせに、自分がしたことは忘れてしまう。しかしそれでもわたしは時々、ふとしたことで自分が誰かを傷つけてしまった過去を思い出します。ああ、あの時あんなことを言わなきゃよかったなぁ、あんなことしなきゃよかったなぁ‥と。よっぽど人を故意に攻撃する場合を除いて、わたしたちはえてして意識せずに人を傷つけているものです。そんなつもりじゃなかった、そんな意味で言ったんじゃなかった、という風に。そして自分が人を傷つけたと気付くと、自分もまた傷つくものです。でもよく考えてみると、それに気付いたからこそ、自分という人間がどれほど人を傷つけているかにも気付くことができたわけです。そうしてみると、人が人を傷つけることを神が望んでいるわけじゃないでしょうけど、そうした一見マイナスの出来事の中にも、神のメッセージやわざがおかれている、と言えます。「なければよかった」と思えることの中にさえ、あるいは中にこそ、神のわざが示されている‥わたしがお世話になったある神父さんはよく「イエスは災い転じて福となす」と言っておられましたが、それこそ《福音の逆説》なんだ、と思います。
すべてのことの中に神がはたらかれていることを改めて思い起こし、イエスの十字架を通して神の栄光が表されていることを心に置きながら、この四旬節を過ごしていきたいと思います。
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