主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

受難の主日C年(3/24)
(ルカ23:1〜49)


 

 

 「キリストの十字架」、それはわたしの中では言わば“苦しみの意義付け”という位置付けです。人間はなぜ苦しむのか‥これはすべての宗教にとって出発点となる命題だと思いますが、旧約聖書では(イエスの時代もそうでしたが)因果応報的な思想が強かったため、これについてあまり歯切れのよい答えは出してきませんでした。つまり、人間はその罪ゆえに苦しむのだ、と。そして場合によっては本人ばかりでなく、家族や先祖の罪ゆえに、苦しみを担う存在であるとされてきました。他方で、ではなぜ正しい人が苦しまなければならないのか、なぜ悪人が栄えるのか‥という問いかけもたびたびなされます。そして神さまは正しい人を必ず救って下さる、という神の救いへの確信も並行して語られます。言わば旧約では人間の罪ゆえの苦しみと、神からの救いのせめぎ合い‥と言ってもいいのかも知れません。そんな中で旧約はようやく一つの答えを出します。「神は、御自分の造られた一つひとつのいのちのいたみ苦しみに、決して無関心ではおられない」。ところがイエスはそんな中でもっと明快なメッセージを下さいました。「無関心」どころか、神がその一つひとつのいのちをどれほど愛しておられるか、と。「神はひとり子を渡されたほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)‥その神は、わたしたちが苦しんでいる時、そばで共にその苦しみを担って下さっている。「キリストの十字架」とは、その神の愛のしるしに他ならないのです。言わば神はわたしたちの苦しみにいつも“寄り添って下さっている”。そのしるしがキリストの十字架だからこそ、わたしたちはそこに救いを見出すことができるわけです。そしてだからこそ、パウロも言います。「だからあなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(?コリント11:26)。今日から聖週間を迎えたわたしたちは、改めて「苦しみに寄り添って下さる」神の愛へと、思いを馳せたいと思います。


ルカによる福音 (ルカ 23:1-49

そのとき、民の長老会、祭司長たちや律法(りっぽう)学者たちは、立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑(まど)わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動(せんどう)しているのです」と言い張った。

 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭(むち)で懲(こ)らしめて釈放しよう。」 しかし、人々は一斉(いっせい)に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。

 人々はイエスを引いて行く途中、田舎(いなか)から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。

そのとき、人々は山に向かっては、

『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、

丘に向かっては、

『我々を覆(おお)ってくれ』と言い始める。

『生(なま)の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸(す)いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲(かか)げてあった。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御(み)国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御(み)手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

 


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