主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

復活節第5主日C年(4/28 ヨハネ13・31〜33a 34〜35)

 

 

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」

旧約聖書において「掟」と称される律法の条項は、実に613を数えると言われています。「掟」という日本語は何か人を縛るもの、というイメージがありますが、もとのヘブライ語は「ハガナ」、“刻む”という意味の言葉だそうです。大切なことだから心に刻むべきこと、ということなのでしょう。他方、律法と訳された言葉は「トーラー」、“指し示す”という意味だそうで、それを聞いた時、あることを思い出しました。禅の言葉で「言葉は指月の指なり」。言葉とは月を指さしているその指に過ぎない、大事なのはそれが指し示す「月」であるのだ、と。ああ、同じだなと思いました。律法も、大事なのは律法そのものではなく、何のためにそれをするのか、ということ。律法のもとはモーセの十戒ですが、出エジプトという大きな救いの出来事を体験したイスラエルの民が、自分たちはこんなにも救われたのだから、せめてわたしたちも神と人とを大切にしよう、ということから始まりました。しかしイエスの時代、律法・掟そのものが目的になってしまった。だからイエスは言われるわけです。「大切なことはただ一つ、互いに愛し合うこと。」この「愛する(アガパオー、アガぺの動詞形)」とは実際に行動することを意味する言葉ですが、もともとは神が御自分の造られたすべてのいのちを「愛される」その愛を表現したものです。神の愛もただ「思う」だけでなく、わたしたちのうちに実際に「行われる」わざであるわけです。そしてだからこそ、イエスは言われます。「わたしがあなたがたを愛したように」。ただよく考えると、イエスのように‥ということは言わば“命がけ”であるわけで、いつもそんな愛し方をするのはしんどいなぁ‥とも思ってしまいます。でも逆に考えれば、どんな小さなことでも誰かのために何かをすれば、神がそれを必ず広げて下さるはずです。よく中高生にこの「アガペ」説明する時に、こんな風に言います。「愛する」とは「好きになる」ことと違う。教室で隣の席にいる子が嫌いだとします。その子が消しゴムを落としたら、心の中では「あ〜ぁ、消しゴム落としてるよ。馬鹿じゃないの?」と思ったとしても、その子のために消しゴムを拾ってあげたらそれはまさしく「アガペ」したことになる、と。問題はどんな小さなことでも実際に「誰かのために何かをすること」です。そして、わたしは「祈り」は行動と言えると思っています。ただ「思う」のと「祈る」のとでは、天と地ほども違う。「祈る」ことは神に向かうことだからです。そして「祈り」には力がある。そう考えるとちょっとは気が楽になってきます。無論祈るだけでは足りないでしょうけれど、そんな「行う」愛を少しでも実践してゆくことができるよう、いつも祈りたいと思います。


ヨハネによる福音 (ヨハネ13・31-33a, 34-35)

さて、ユダが(晩さんの広間から)出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


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