主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第12主日(6/23)C年《ルカ918〜24

 

 6月17日〜18日の一泊二日で「横浜教区司祭の集い」を致しました。前にも紹介したことがありますが、年に二回、春と秋に横浜教区で働く司祭のための、半分研修半分交流といった集いをしています。今回は6月にずれこんでしまいましたが、「信仰年」ということで、使徒信条(ミサのときに唱えている)について学ぼうと、フランシスコ会の小高師を講師に招いてお話しを聞きました。いや〜色々と勉強になりました。普段なんとなく半分習慣としてあまり考えずに唱えてしまっていますが、改めてこんなことを「信じます」と宣言しているんだな‥と実感しました。「使徒信条」といっても直接使徒たちが教えたものではなく、使徒の教えに基づいて少しずつ成立していったものだそうです。ただその成り立ちを見ると、残念ながらそれは言わば“教会分裂の歴史”でもありました。

 まずは異端とされたアリウス派というグループとの戦い(と、小高師は言っておられました)。アリウス派とは、わかりやすく言うと「イエスはただの人間」と主張したグループで、カトリック側は「いやいや、イエスさんただもんじゃないし」と信条の条項をいくつか入れることになりました。次に東方教会との分裂。これは主に「三位一体」の解釈の違いからのものです。カトリックはヨハネ福音書にこだわり「聖霊は父と子から出る」としたのに対し、東方教会は「聖霊は父から子を通して」と表現しました。まぁ言葉の違いでもありますが‥東と西は言葉も文化も違い、もともと分裂の必然性もあったと思われますが、直接の分裂の原因はまさにこの解釈の違いでした。それによって「二ケア・コンスタンティノープル信条」が作られました。(わたしは東方教会の表現のほうがしっくり来ますが‥いや、ここだけの話です)

 ちょっと話は変わりますが、実は6月15日に神田のニコライ堂(日本ハリストス正教会、日本の東方教会です)に見学に行ってきました。学連の学生たちが、他教派や他宗教に触れようということで企画したのですが、これもなかなか色々と勉強になりました。向こうの信徒の方が実に細かく説明してくれたのですが、こちらがカトリックのグループだと言ったせいでしょうか、歴史の部分でこんなことを言われました。「三位一体こそがキリスト教の根幹であるわけですが、歴史においてカトリックは『聖霊は父と子から』とか言い出したんですね。父と子を並列に置かれたんじゃ、これわけわからなくなってしまうわけで‥」いやー攻めて来るな‥と思いましたが、当の学生たちはよくわからなかったようです。ちなみに正教会では「立って祈る」事にこだわるそうで、主日の礼拝が大体二時間半、ずっと立ちっぱなしでやるそうです。不謹慎ながら“カトリックでよかった‥”などと思ってしまいました。

 話を戻すと‥「司祭の集い」では二日目、小高師の講話をもとに小グループに分かれての分かち合いをしましたが、多くの司祭たちから出た意見は「確かに歴史的には色々あったのは事実だが、今は教派を超えて一緒にやろうという時代。そこからすると、使徒信条ももう現代的ではないのではないか」というもので、わたしもまさにそう思いました。例えばいずれも「二ケア・コンスタンティノープル信条」ではありますが、「わたしは信じます」というのを「わたしたちは」にするとか、また「唯一の」という言葉を強調するけどせめて「ひとつの」という表現にするとか。ちなみにわたしは司祭になって最初に赴任したのは長野県の松本でしたが、地方の方がえてしてエキュメニズムがやりやすいという面があります。松本でも教派を超えた集まりが頻繁にあり、多くのプロテスタントの牧師さんと知り合いになりましたが、プロテスタントでは教会ごとに信条が違っていて、むしろそれをその教会の「売り」にするんだそうです。いずれにしても、現代では「違い」を強調するのではなく、「一緒に」を大切にするべきでしょう。その意味では、今年はわたしたち百合ヶ丘ではとてもいい機会が与えられたと思います。日曜の午後日本キリスト教団の生田教会に聖堂をお貸ししているわけですが、この話が来た時、皆さんがとても快く承諾してくださったことを本当に嬉しく思いました。折角ですから、何か交流の機会が持てればと思っています。

 今日の福音でイエスは「わたしについて来たい者は自分の十字架を背負って従いなさい」と言われています。教派の違いというものを考えると、それぞれ十字架の「背負い方」が違うのかな‥などとも思ったりしますが、言わば同じ十字架を背負い、同じイエスに従おうとしている他教派の兄弟姉妹と共に、どこかでいつも「ひとつに」つながっていかれることを、共に心から願いたいと思います。

ルカによる福音 ルカ9・18〜24》

 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」


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