「主の祈り」のルカ版の箇所です。イエスは神に向かって「父よ」と呼び掛けます。前にもお話しましたが、この言葉はイエスが話していたとされるアラマイ語で「アッバ」、幼い子供が父親に向かって呼び掛けるいわゆる幼児語なのだそうです。日本語にすると「パパ」といったところでしょうか。この箇所を読むといつも少し面白く思うのですが、イエスの弟子たちが「先生、祈りを教えて下さい」と言ったのに対しイエスは「よろしい、では祈るときにはこう言いなさい。パパ!」と言われたわけです。弟子たちはおそらく「‥パパ?」としばし固まったことでしょう。イエスの時代、また旧約でも神を父親にたとえるような表現はあったにしても、「パパ」なんて親しげに呼び掛ける人は誰もいなかった。でもイエスは「いや、パパだよ」と。この一言に、神とわたしたちとの関係がすべて表されていると言っても、実は過言ではないのです。わたしたちにとって神とは、幼い子供にとっての親(父といわれてますが、母でもいいのでしょう)のような存在であると。幼い子供は親に200%依存しています。わたしたちもそのように神に頼り切っていいのだ、というわけです。また、神にとっても御自分の造られたすべてのいのちは、親にとっての赤ん坊のように大切な存在なわけです。
旧約聖書を読んでいると、そこに提示される神はどこかおっかなく、厳しいイメージがあります。今日の第一朗読でも、アブラハムが神さまを「もう一声!」みたいに説得する形で書かれていておかしいんですが、もちろん旧約でも神のいつくしみやゆるしが語られる部分があっても、残念ながらそれははなはだ不完全と言わざるをえません。神さまという存在は大き過ぎてしまって、なかなか全体像がつかめない。そこで旧約の人々は、人間をモデルに考えたわけです。「もし人間だったら‥」と。もし人間だったら、ここまでは我慢できてもこれ以上は無理でしょう、裏切られたら怒るでしょう‥と言った感じです。だから、神のいつくしみやゆるしを体験した人たちはこんな風に表現しました。「神は忍耐深い」と。人間だったらとても無理だけどさすがは神さま‥というわけです。出発点が人間だったんですね。そんな中でイエスはそのような神さま像を根底からひっくり返します。「いや、パパだよ」と。どれほど神さまが一つひとつのいのちをかけがえのないものとして、無条件に、そして一方的に愛して下さっているか。このイエスの放った「アッバ」という言葉が、当時どれほどの衝撃を与えたか、「父よ」という訳語ではわたしたちはなかなかそれが実感しにくいかもしれません。まぁだからといって聖書に「パパ」と訳すわけにもいかないんでしょうけれど。そしてイエスは、いわば旧約とは逆の形で人間と神を比較します。人間だって自分の子供には良いものを与えるでしょう、ましてや神は‥と。神さまは人間からは想像できないくらいわたしたちを愛して下さっている、だから何でも願いなさい、神さまは必ず聞いて下さるよ、と言われる訳です。
考えてみるとわたしたちは、ミサの中の祈りも含めて、祈る時にはたいてい何かを「願って」います。もちろん賛美や感謝の祈りもありますが、9割方は「~して下さい」「~でありますように」というお願いです。でも、今日の箇所ではあながちそれも悪くはない、と言われます。むしろ大いに願いなさい‥と。無論、わたしたちの願いがわたしたちにとって都合のいい、わたしたちが求めているような形や場、時に与えられるとは限りません。むしろそうでない場合、意外な時や場で、意外な形で与えられることが往々にして多いのかもしれませんが、それでも「求め続けなさい」と。そのベースにある大切なことは、まず「神に向かうこと」であるのでしょう。これは自分の力で何とかできるな、とか、いやこれは自分の思い通りに‥といった意識に対して、これは旧約も同じですが、聖書は常に警告を発します。「自分に頼ってはならない、人間を頼みとしてはいけない。ただ神にのみ、より頼め」と。そのメッセージは、わたしたちがしばしば神から離れてしまう傾向を持って生きていることも、同時に思い起こさせます。「自分」ではなく「神」に。これはわたしたちの信仰の中での基本的姿勢であると同時に、いつも忘れがちになる要素でもあるのでしょう。
いつでも、わたしたちをこよなく愛しておられる神さまへと向き直ることができるよう、御一緒に祈りたいと思います。
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