「金持ちとラザロのたとえ」です。
旧約の時代、人々は財産や富、家畜、そして家族も、すべて神からの賜物であると考えていたようです。半遊牧的生活をしていたイスラエルの民にとって、家畜も財産の一部であると同時に家族でもあり、また子孫繁栄という点から、家族が多いのはそれも財産であるとして、それらが多いのは神から祝福されているしるしであるととらえました。
イエスの時代にはそれがおかしな形で残り、すなわち金持ちは神から祝福されていると人々は考えました。ゆえに金持ちは自分の富を大いに誇っていたし、神に近い人々と思われていたようです。他方で、今日の第一朗読にもあるように旧約の時代の預言者達は富を貪る者達を痛烈に批判し、福音書においてはイエスは、『金持ち」に対しては非常に厳しいことを言われています。福音書の他の箇所でイエスは、「金持ちが神の国に入るよりも らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われますが、これは当時よくあった言い回しで、要するに“ほとんど不可能”だというわけです。これを聞いていた弟子たちは皆仰天し、『金持ちさえ神の国に入れないのなら、じゃあいったい誰がはいれるんだろう?」とささやき合いますが、それにはこうした思想背景があったわけです。
今日のたとえも、ルカ福音書ではファリサイ派の人々に対して語られたものとしますが、いずれにしても聞いていた人は相当驚いただろうと思われます。ただ、「金持ち」であること自体が悪いと言われているのではありません。金持ちの家の門前にいた貧しいラザロは死後救いにあずかるわけですが、ここでの一つのポイントは、ラザロの人格的側面は一言も言われていない、ということです。“ラザロは貧しいけれど良い人だった”とか、“心が清かった”などとはまったく書かれていません。要するに、現代のわたしたちもよく考えがちな《生前良い事をした人は天国に入れて、悪い事をしていた人は地獄に行く》といったいわゆる“因果応報”的なものではまったくない、ということです。それどころか、神はすべての人を救おうとなさっており、中でも真っ先に貧しい人、小さな存在、いたみや重荷を負っている人々に目を注がれる、というのが福音書のメッセージであるわけで、「金持ち」だと、そうした神の視点が見えなくなってしまう、というのが今日のたとえの主題なのです。
金持ちは自分の家の門のすぐ外にいた貧しいラザロにまったく関心を持ちませんでした。ちなみに「門」は家の内と外とを分ける“境界線”としてのシンボルによく使われるものです。例えば出エジプトの時の「過ぎ越し」で、イスラエルの人々に「門のかもいに子羊の血を塗るように」という指示が出されたように・・。【内】にしか目を向けず【外】に目が向かなかった金持ちにとって、その“境界線”は後に「越えられない大きな淵」になってしまいました。【外】に、そして神に目が向かなくなると とりかえしのつかないことになっていまう、という警告です。
ここで「陰府(よみ)」という言葉が出てきますが、聖書の時代はわたしたちが考えるほど死後の世界についてまとまった思想があるわけではなかったようです。だからこれが「地獄」と同一のものなのかも分からないし、そもそもこのたとえの目的は死後の世界を語ることではなく、どのような視点を持って生きるべきかを示そうとするものなのです。
常に自分の【外】へと目を向けること、何かの折に申しあげてきましたが、これこそが「回心(メタノイア=視点を変えること)」の最も基本的な要素です。今、誰が一番助けを必要としているのか、どのような人々が最も弱い立場に置かれているのか。そこに目を向けようとすることこそ、【神の視点】へとわたしたちの視点を動かしていくことに他ならないのでしょう。
【神の思い】にいつもわたしたちのそれを合わせてゆけますよう、共に祈りたいと思います。
|