主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第16主日B年(2015.7.19)

[マルコ6:30〜34]


 「イエスは‥大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」 何かの折に触れることですが、この「深く憐れみ」と訳されているのは“スプランクニゾマイ”というギリシャ語で、内臓を表す言葉の動詞形、なのだそうです。なので無理やり直訳すれば“はらわたする”という感じになりますが、そんな日本語はないのでよく「はらわたが揺さぶられるような思い・よじれるような思い」といったように説明されます。日本語では怒りを表す時に「はらわたが煮えくり返る」と言ったりしますが、要はそのような激しい思い、ということでしょう。「はらわたが揺さぶられる」とはどんな思いなのだろう‥とずっと考えていましたが、東日本大震災の時、ああ、まさにこういうことなんだなと思い知らされました。

 目の前で自分の大切な存在が苦しんでいるような時の思い。そしてこの言葉はマタイ・マルコ・ルカの共観福音書だけに12回出てくるそうですが、いずれも神かイエスが主語の時にしか使われていません。つまりは、神の一つひとつのいのちに対する思いを表現した言葉、と言ってもいいでしょう。ただ唯一の例外がルカにあって、それは『善いサマリア人のたとえ』です。「あなたの隣人を愛しなさい」「ではわたしの隣人とはだれ?」という問いに対してイエスが語ったたとえです。「ところが旅をしていたあるサマリア人は、その人を見て憐れに思い‥」本来は神かイエスが主語の時にしか使わないこの言葉を、神の思いを意識させるためにわざわざ使った、としか考えられません。いずれにしても、すべての根底に《神がどれほど一つひとつのいのちを愛されているか》があるわけです。

 ミサのあわれみの賛歌でわたしたちは「主よ、あわれみたまえ」と唱えますが、これも同じ意味合いです。あわれみの賛歌は回心の祈りの後に来るので、何となくわたしたちは「罪のゆるし」を意識しがちですが、もとはミサのはじめに当たって『神の大きな愛』を思い起こし、それに心を向ける祈りなんですね。ちなみにこの「神の愛」は、英語では「チャリティー」と訳されます。例えばマザー・テレサの会は御存じのように「missionary of charity」で「神の愛の宣教者会」と訳されます。「チャリティー」は日本語では「慈善」などと訳されますが、もとは「カリタス」というラテン語で、〈神の慈しみ〉を表す言葉、旧約ではよく「慈しみと愛」という表現が使われます。

 いずれも神の思い、働きかけを表す言葉、と言えます。その『神の思い・愛』にわたしたちが触れた時、それに気づいた時、自分もまた他の《いのち》に対して行動することができるのだと思います。『善いサマリア人のたとえ』の最後に、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。わたしたちはえてしてこのたとえを読む時、もし自分が祭司やレビ人の立場だったら‥と考えがちです。道端に血だらけで倒れている人がいたら、自分だったら助けられるかどうか‥と。でも発想をまったく変えて、もし自分が強盗に襲われた人だったらと考えれば、イエスの言葉が心に響いてきます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

 わたしたちはいつも誰かに支えられ、助けられています。そのことを考えるならば、では自分も誰かのために‥となるでしょう。神さまとわたしたちの関係も同じなのだと思います。いろいろと調べてたら見つけたんですが、1980年にヨハネ・パウロ?世教皇が出された『いつくしみ深い神』という回勅に、こんな言葉があるそうです。「慈しみ深い愛が本当にそうなっているのは、それを実行する時、その慈しみを受け取ってくれる人々からも、実は同時にわたしたちが慈しみを受けていることを深く確信している時である」‥要するに、神さまの慈しみ深い愛があるからこそ、わたしたちが誰かを愛そうとする時、その人からも愛されている、ということなのでしょう。そんな愛の交わりの中に置かれていることを、いつも感じ、それを多くの人と分かち合いたいと思います。



(マルコによる福音 6:30〜34

(そのとき)、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(マルコによる福音 6:30-34)


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