まことに 主はよみがえられた アレルヤ!

復活とは・・・・

                            

  教会では毎年春に、イエス・キリストの復活を記念する復活祭を祝います。「キリストの復活」、それはひとことで言うならば【出会いの体験】に他なりません。

 約二千年前、中東のパレスチナでナザレのイエスという人物が、ローマ帝国に対する反逆罪である十字架刑に処せられました。これは聖書以外の資料にも載っているので、歴史的事実です。イエス御自身には何の罪もありませんでしたが、当時のユダヤ人たちの中の、宗教的指導者や権力者たちの妬みそねみによって、十字架にかけられてしまったのです。

  イエスという方の教えは、それまでの誰とも違ったものでした。彼は神を「父」と呼びました。その呼び名は当時イエスが話していたとされるアラム語で“アッバ”という言葉で、幼い子供が父親に対して呼びかける幼児語なのだそうです。日本語にすれば「パパ」でしょうか。神に対してそんな親しげな向かい方をする人は、それまで誰もいませんでした。でもその一言に、神と人間との関係が表わされているのです。わたしたちにとって神という存在は、幼子にとっての親のようなもの、神にとってすべてのいのちは、親にとっての赤ん坊のようなもの。神は御自分のつくられた一つひとつのいのちをかけがいのないものとしてこよなく愛して下さっている。だからこそ、神はゆるす方であって裁く方ではない・・・それはそれまで人々が神という存在に対して持っていたイメージを、言わば根底から覆すものでした。

  イエスはまた、御自分で弟子を選ばれました。「わたしについてきなさい」・・・この一言に、呼びかけられた人はつき動かされるように従いました。そのほとんどはガリラヤの湖で魚をとる漁師たち、何の学も社会的地位もない人たちでした。イエスは弟子たちに、自分は人々に十字架にかけられて殺される、そして三日目によみがえる、と三度にわたって予告しましたが、弟子たちは何もわからず、ただおびえていました。そして実際にイエスが逮捕されたとき、すべての弟子はイエスを見捨てて逃げ散ったのでした。

  イエスが十字架上で亡くなられた後、弟子たちは失意のどん底にいました。師が殺されてしまうという悲しみ、そして自分たちが師を見捨てたという後ろめたさ。でもそんな彼らが、十字架上で亡くなられたはずの方に「出会った」のです。新約聖書における復活の記事を注意深く読むと、その「出会いの体験」にはたくさんの要素が含まれていることに気づかされます。それはゆるしの体験であり、力が与えられる体験であり、イエスのそれまでの教えを悟った体験、そして宣教へと派遣される体験でした。

  その後、弟子たちはそれまでとは見違えるように力強くなり、宣教をはじめました。十字架にかけられたイエスというお方こそが「キリスト」、つまり旧約の昔から預言されていた【救い主】である、自分たちはその証人なのだ、と。またその後、様々な人が復活のキリストと出会いました。できたばかりの教会を迫害していたパウロ。彼はキリストとの出会いによって生き方が百八十度変わり、自らもキリスト者となって、地中海周辺に広くキリストの教えを広めました。新約聖書の後半には、そのパウロが様々な教会や人に当てた手紙がおさめられています。それから二千年の間、実に沢山の人が「キリストとの出会い」を体験しています。それは人それぞれに違うので、一概には言えませんが、教会が二千年の間続いてきたことがその一つのしるしに他なりません。そしてその「出会い」とは、キリストを通しての神からの呼びかけでもあるのです。それに触れた時、人は変えられ、力と希望が与えられます。そしてその呼びかけは決して一度限りではありません。今も、そしてこれからも、神はキリストを通してすべての人に呼びかけ続けておられます。「あなたは大切な、かけ
がいのない存在なのだ」、と。                                            2010/4/2 鈴木 真神父

 


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