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御復活おめでとうございます 今年も全世界の人々と共に、キリストの復活を記念し、お祝いしたいと思います。 よく話すことでもありますが、わたしにとってそれは【神に名指しで呼ばれていることに気付いた】体験でありました。上智大学神学部で学んでみたい、というはなはだよこしまな動機で神学校に入ったわたしは、「召命」ということについては今ひとつピンときていませんでした。 わたしは幼児洗礼(赤ん坊の時に親の意志で洗礼を受けること)者です。幼い頃から神さまの存在はとても身近でしたし、「祈る」こともわたしにとっては特別なことではなく、日常のごく自然な、神さまに語りかけることでした。でもそんなわたしにも「神から呼ばれる」ということはよくわかりませんでした。だから悩みました。「自分は本当に司祭になるべき人間なのか?」「自分は何がしたいのか?」と自問する中でわけが分からなくなり、ついにこう祈りました。「もう神さま、めんどくさいっす。よくわかりません。だからみんなあなたに任せますから、好きにして下さい。アーメン」と、そこで気付きました。主語を「わたし」にしていた時には気付かなかったことが「神さま」を主語にしたら次々と見えてきたのです。神さまは確かに、とっくの昔にわたしを呼んで下さっていた。それも「お前じゃなきゃダメ」という形で。こんなわたしでいいんですね?どうなっても知りませんよ。あなたのせいですからね。‥などと都合のいい祈りをして、わたしは司祭になりました。そして同時に気付いたのです。 これこそが、「キリストの復活」だと。幼児洗礼者ですから、幼い頃から「キリストは十字架上で亡くなり、三日目に復活された」と教えられてきて、あまり深くは考えずに(たいてい幼児洗礼者ってそうです‥ほかの幼児洗礼者の方、ごめんなさい)、「ふぅーん‥」なんて思ってましたけど、自分が呼ばれてることに気付いた時、そうか、これこそが、キリストが今も生きていて共にいて下さり、そのキリストを通して神はいつもわたしたちに呼びかけて下さっているってことなんだ‥と実感しました。言わばこれこそが、自分にとっての「復活体験」でした。 神はキリストを通して、すべての人を、その人がキリスト教徒であろうとなかろうと、はたまた神を信じていようが信じていまいが、すべての人を、名指しで、「あなたでなきゃダメ」という形で呼ばれています。それこそが「キリストの復活」であると言えるでしょう。2000年の間、沢山の人がそうして神に呼ばれ続け、だからこそ教会は、2000年の間続いて来ました。今年もキリストの復活を共に祝う中で、絶え間なくわたしたちを呼び続けておられる神さまのはたらきに、感謝したいと思います。
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