ごらんなさい 野のしらゆりを
―主任司祭メッセージ 6/21―





野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず、紡ぎもしない
(マタイ 6・28)

 私が1年生になった時のことです。友達の家に遊びに誘われて、初めて野原を見た時の感激を
今も覚えています。緑の中、数えきれない花々、その香り、昆虫、そよ風、鳥たちのさえずり、小川の
せせらぎ、大空…実は野の花ではなく、歌にあるように野のゆりとありますから、私自身がこの百合ヶ丘
教会に行くようにと頼まれた時、この子ども時代の体験が聖書のことばとともに思い浮かびました。
日本語でこの気持ちを表す言葉は「ふるさと」でしょうか。

 どうしてイエズス様は私たちの注意を野の花に向けられたのでしょう。それはきっと歌にあるように、
「こんなに小さないのちでさえ、心をかけてくださる父がいる」からです。
 ルカにはっきりと書いてあります。

あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。
また、思い悩むな、それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである

(ルカ 12・29〜30)

 ここには、はっきりと「思い悩むな」とあります。つまり「不安を抱くな」ということです。
 どうして私たちは不安になるのでしょうか。それは、私たちがいのちがおくりものではなく、
私たちの力によるものだと考えてしまいがちだからです。でもそうではありません。
 それなのに、今日の社会もますます不安に陥る社会ではないでしょうか。

 いのちは自分の力によるものと考えてしまうと、暴力・争い・競争・分け隔てにつながり、
いつまでも満足しない「もっとがいい」となってしまいます。

 聖書には参考になる他の箇所があります。それはカインとアベルの話です。
 カインは農業を営む人でアベルは羊飼いでした。二人とも神様に捧げ物をしますが、

主はアベルとその捧げ物に目を留められたが、
カインとその捧げ物には目を留められなかった。
(創世記 4・4b〜5a)

とあります。それはカインの怒りのもとになりました。
 私たちにははっきりとそのわけは説明されていませんが、自分の力によっていのちを支えるものを
作るカインの心には、今の社会の中に存在している不安を起こす根っこがあるのではないでしょうか。
確かにカインの心には、私たちの中に働いている悪への力の根を見ることができるでしょう。
 カインと同じように私たちも、いのちは私たちの力によるものと考えると、神さまとの関係、
人々との関係が乱れてしまいます。
 聖なる信仰は、このような傾きに負けないようにと教えてくれます。
信仰について預言者 ミカは次のように書いています。

 人よ、何が善であるのか。
そして、主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、公正を行い、慈しみを愛し、
へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。

(ミカ 6・8)

 イエズス様はわたしたちが子どものようになるようにとすすめて下さいます。

『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。』
(マルコ 10・14b)

 

 ミサの中でも「主の祈り」のすすめにあるように、「天におられるわたしたちの父よ、」と呼びかけるよう、
イエズス様が教えてくださいます。
 私たちも神の子どもの心を願って、皆がなじみのある歌を一緒に歌いたいと思います。

ごらんよ空の鳥、野のしらゆりを
まきもせず紡ぎもせずに安らかに生きる
こんなに小さないのちにでさえ
心をかける父がいる




カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン



* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。

ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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