わたしたちの救い キリスト
―主任司祭メッセージ 6/28―




神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって、世が救われるためである。

(ヨハネ 3・16〜17)

 キリストが与えてくださる救いは、永遠の命です。
 最近、ニュースの話題になったことですが、モナ・リザにも比べられていて、今まで知られていなかった
レオナルドの作品が発見されました。そのタイトルは「サルバトール・ムンディ」、“世の救い主キリスト”の
意味です。
 わたしたちはキリストを「救い主」として信じて、キリストの教会となっています。
でも実際に一般の人々は、キリストの救いを求めることさえ知らず、自分の力による救いを求めます。
いえ、キリストを信じる私たちも、いつもそちらに傾いているのではないでしょうか。

 今日のみ言葉はキリストの救いについて教えてくれます。
 福音書に次のようにあります。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、
わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

(マタイ 10・39)

 またパウロは、洗礼について思い出させてくれます。

あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために
洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

(ローマ 6・3)

つまり、キリスト様が与えてくださる救いは、新しい命であって、永遠の命です。

 どんなお母さんでも、その子を世に生む力を授かっています。
 けれども人間は神様の恵みによって、新たに生まれる必要があります。
この新しい命に生んでくれるのは、信仰であって、キリストを信じることです。
キリストを信じる信仰を生み育てるのは母なる教会です。

キリストを信じるその意味は、今日の福音書に記されています。

自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。

(マタイ 10・38)

 つまり、キリストを信じてキリストに従う私たちの毎日の中で、キリストの死と復活につながる
経験をすることによって救いを味わうことになります。
 他の箇所にパウロはこの経験を次の言葉で表現します。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。
これは主の霊の働きによることです

(Kコリント 3・18)

 キリストの愛の道を歩むことに伴うこの経験は、わたしたちをキリストの救いに加え、
新しい命の喜びにあずかるものとしてくださいます。

 キリストの豊かないのちに成長し歩みたいと思います。
 愛の重みを捧げものとする喜びを味わって歩みたいと思います。




カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン



* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。

ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

主任司祭メッセージのバックナンバーは更新記録へ