二人または三人が…

―主任司祭メッセージ 7/5―





二人または三人が私の名によって集まるところには、

わたしもその中にいる。
(マタイ 18・20)

 ミサは、このイエズス様の約束をいつも新たに実現します。
ミサによって、わたしたちは「教会」、“神さまが一つに集めてくださった民”となります。
きっと、ミサに参加できなくて今わたしたちが感じている寂しさの原因は、ここにあるのでしょう。

ミサは、よろこびです。ミサは、神さまの家族の一員として居ることのよろこびです。
ミサは、新しさに満ちた一致の喜びを味わうところです。

「わたしの名によって」、それは、父のもとからイエズス様が贈ってくださる聖霊の力によって、
という意味です。つまり、まったく新しい一致の経験です。


実は、一致を求めて私たちはいろいろな工夫を追いかけ追求します。でも、
いつまでもたどり着いたという感じはないのです。

人間が求めるこの一致は恵みであり、キリスト様お一人だけが、わたしたちにくださるものです。
その新しさについて、次のように書いてあります。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

わたしの愛にとどまりなさい。
(ヨハネ15・9)

ミサは、わたしたちが参加できるために、いつも又どこでもイエズス様が行われる、
その 救いの神秘です。

このことが記されているところは、ミサの奉献文の中心となるところです。
その時、イエズス様は司祭の姿を通して、


パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。

「皆、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される

わたしのからだである。」  と。

また、

「これをわたしの記念として行いなさい。」  とあります。

イエズス様の記念、それはその救いであって、またその愛による新しい一致の現われです。
 その一致に加えていただくのは、わたしたち 皆です。

「二人または三人が…」その言葉は「皆」のことです。イエズス様のもとに来て、
イエズス様を囲み、イエズス様を信じるわたしたち皆のことです。

わたしたちのミサに参加する“しるし”となるいろいろな奉仕があります。
お花を飾ることから信徒を迎え入れる準備、場所を整える人、直接典礼にかかわる人音楽など、
それからミサのために集まってきた兄弟の皆さん…これらはそれぞれ参加のしるしとなりますが、
私たち皆を一つにしてくださるのはキリスト様であって、キリスト様を信じる心です。

わたしたちは、キリスト様がくださるまことのいのちの糧を待ち焦がれているからこそ、
ミサがないと本当に寂しく感じるのです。

実はイエズス様がわたしたちの飢え渇きを満たされる、そのしるし(秘跡)となるご聖体は
―それが置かれているところも「教会」と呼ばれるほど、となりました。


イエズス様の一致の神秘をこの場所でふさわしく思い出し、そこで祈り、礼拝するのです。
また、わたしたちがイエズス様の神秘によって「教会」となっていることに、いつも目覚め、
感謝するのです。

この喜び、イエズス様が一つにしてくださった喜びを他の人々に伝えるために、
わたしたちはわたしたちの毎日の中に派遣されています。ミサの終わりに、

       「行きなさい、主の平和をもたらすために。」    とあるように。





カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

今回からしばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。

ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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