二人または三人が… ―主任司祭メッセージ 7/5―
二人または三人が私の名によって集まるところには、 わたしもその中にいる。 ミサは、このイエズス様の約束をいつも新たに実現します。 ミサは、よろこびです。ミサは、神さまの家族の一員として居ることのよろこびです。 「わたしの名によって」、それは、父のもとからイエズス様が贈ってくださる聖霊の力によって、
人間が求めるこの一致は恵みであり、キリスト様お一人だけが、わたしたちにくださるものです。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。 ミサは、わたしたちが参加できるために、いつも又どこでもイエズス様が行われる、 このことが記されているところは、ミサの奉献文の中心となるところです。 パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。 「皆、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される わたしのからだである。」 と。 また、 「これをわたしの記念として行いなさい。」 とあります。 イエズス様の記念、それはその救いであって、またその愛による新しい一致の現われです。 「二人または三人が…」その言葉は「皆」のことです。イエズス様のもとに来て、 わたしたちのミサに参加する“しるし”となるいろいろな奉仕があります。 わたしたちは、キリスト様がくださるまことのいのちの糧を待ち焦がれているからこそ、 実はイエズス様がわたしたちの飢え渇きを満たされる、そのしるし(秘跡)となるご聖体は イエズス様の一致の神秘をこの場所でふさわしく思い出し、そこで祈り、礼拝するのです。 この喜び、イエズス様が一つにしてくださった喜びを他の人々に伝えるために、 「行きなさい、主の平和をもたらすために。」 とあるように。
カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン
今回からしばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。
* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。 |
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