見える司祭は 見えないイエズスさま

―主任司祭メッセージ 7/12―




 神さまは見えません。けれども受肉された(人間の姿でお現われになった)神さまは、見える神さま 
ともなられました。これは、教会にとって信仰の神秘です。
 こうして例えば、聖書にはイエズスさまのあの言葉があります。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時から
お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ…」

(マタイ 25・34〜35)


 「見えない神さま」が見えるようになられたのは神さまが人間となられたからですが、
見える人間の姿に「見えない神さま」を見る力をくれるのは信仰です。

 ミサの時に司祭は、独特な形で「司祭キリスト」の姿となっています。
 ミサは、イエズスさまのミサです。わたしたちは「イエズスさまのミサ」に加えられていますが、
これは、「イエズスさまのミサ」のしるし(秘跡)となっている司祭のおかげです。

 ミサの流れを振り返ってみましょう。
 ミサの始まる時、イエズスさまは私たちに先立って、見える司祭のしるしを通してわたしたちを祭壇に
導いてくださいます。
 続いてイエズスさまがわたしたちにそのお言葉を聞かせてくださった後で、わたしたち(集会)と共に、
御父に祈りをささげてくださいます。
 その後わたしたちは、わたしたちのパンとぶどう酒をイエズスさまのみ手にゆだねた後、イエズスさまは
それをご自分のいのちのささげものとしてくださるおかげで、わたしたちは御父である神さまにふさわしい
愛のささげものに変えられます。

 こうして司祭キリストと心一つになったおかげで、わたしたちはふさわしく「主の祈り」を唱え、
「主の平和」を分かち合い、また主のからだをいただく(拝領する)ことによって、新しいいのちとの
一致の交わりを味わい、さらにまたその新しいいのちをもたらす者として派遣されます。

 このように、司祭を通して見える“姿(しるし)”となったキリストにわたしたちが出会い、
キリストの救いにあずかることが出来るようになります。

 A司祭、B司祭と司祭はいろいろといますが、ミサを捧げてくださるのはキリストです。

 司祭が着る服もそのことを教えてくれます。祭服は、キリストの姿を表すのです。

 一方、ミサをつかさどる司祭は、イエズスさまの姿とイエズスさまと共に祈る教会の姿を表す
だけでなく、場合によって個人の立場の姿もとっています。たとえばミサが始まるときに、
司祭も皆さんと一緒に洗礼の時の回心を願って罪を告白し、自分のために神さまの大きな
あわれみを求めます。

 見える司祭を通して見えない司祭キリストがささげるミサは、イエズスさまの奉献にわたしたちをも
加えて、御父にふさわしい香り高いささげものにしてくれます。
 それによってわたしたちは、神さまにふさわしい礼拝を行い、まことの祝いを味わい、いのちに満ちた
喜びの泉から汲むことになります。またわたしたちは、その泉から汲んで世界中のみんなに運ぶために
派遣されるのです。




カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

今回からしばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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