「新しいいのち」の知恵と力を身につけるために

―主任司祭メッセージ 7/26―



 愛である神さまのいのち、信仰の恵みによる新しいいのちに加えられて、わたしたちは神さまを「父」と
呼びます。イエズスさまと一つになり、わたしたちが皆兄弟となって、『天におられるわたしたちの父よ』と
祈るのですが、ミサはその「新しいいのち」の知恵と力を身につけるための「場」でもあります。

 ミサで、イエズスさまは神さまにささげものを捧げる祭司であるだけでなく、ご自身を“ささげもの”として
捧げる祭司です。
 それからミサで、わたしたちもキリストの祭司職に加えられることが可能となります。

◇ 奥村一郎神父様の『祈り』という本に、次のようなエピソードがあります。
   おじいさんと孫がある公園に遊びに行ったとき、
   公園の隅にお地蔵さんがありました。
   孫はそのお地蔵さんに手を合わせて祈る、
   「おみかんも持って来なくて、ごめんネ。」    と言ったという話です。

 子どもたちは贈り物をする(差し出す)喜びを知っています。ですが成長に伴って、差し出す怖さを覚え、
損得に縛られ、差し出す喜びを味わうことができなくなってしまいます。
 キリストさまはその喜びを返してくださいます。


◇ 「ご聖体拝領」という言葉をわたしたちは使いますが、その本当の意味は何でしょうか?
何かをいただいてそれで終わりというものでしょうか?

 実はこの「いただいて食べる」ということは、“イエズス様と一緒に自分を捧げる”ということです。
キリストの体をいただくことは、わたしたちが何かを「もらう」のではなく、ご自分をわたしたちのために
捧げてくださったキリストのこころを身に着けて出かける、ということです。
 このいただいたキリストさまの心を持ってわたしたちは毎日の生活の中に出かけるのです。
 例えば、わたしたちは「我慢しなさい」とよく言われますが、わたしたちが一人で我慢することは
辛くさびしいものです。ですが「イエズスさまと一緒にささげましょうね」となると、神さまの愛の業に
加えられる喜びを知ることになります。


◇ さらにミサの捧げものから学びましょう。
 ミサに欠けてはならない材料があります。それはパンとぶどう酒です。
 わたしたちの捧げるものは、小さくてささやかなものに見えるかもしれませんが、
イエズスさまはそれを必要となさいます。わたしたちをご自分の捧げものに加えられるためです。

 「奉納」の時に、わたしたちが祭壇に持って行ったパンとぶどう酒の上に、
司祭は次のように祈っています。

神よ、あなたは万物の造り主、
ここにささげるパンはあなたからいただいたもの、
大地の恵み、労働の実り、
わたしたちのいのち(神の愛のいのち)の糧となるものです。

 このパンとぶどう酒はわたしたちの“地上の”いのちを支えるものの全部のしるしですが、
それが“永遠の”いのちの糧となるために、イエズスさまのお言葉が必要です。
こうして「聖変化」のときに、司祭はキリストの言葉を述べます。

「…皆、これをとって食べなさい。
これはあなたがたのために渡されるわたしのからだです。…」  

     「これをわたしの記念として行いなさい。」      と。


 神さまは、この地上のわたしたちのいのちを神さまのいのちに、つまり“神さまの愛であるいのち”に
変えてくださいます。この地上の死にまみれたはかないわたしたちのいのちを天の永遠のいのちと
つながるものとしてくださいます。
わたしたちのささやかな毎日の出来事すべてが、神の愛をもたらすものに変えられてゆきます。
わたしたちはみんな“祝福”となって、神さまのいのちが実現してゆきます。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。

(ヨハネ 3:17)



カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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